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脳出血入院記(1)2022年6月上旬 脳出血

 6月上旬の日曜日。朝8時。
 いつもの定位置。仕事机とダイニングテーブルがL字型に配置されている真ん中にある椅子に座る。

 今日はよく行っているアルパカ牧場でアルパカの毛刈りを公開するイベントが午後からあるので、お昼頃に家を出て見に行こう。
 それまで午前中は各地の動物園や水族館で買ったお土産を整理して飾ろう。とりあえずお土産関係を入れているトレイを机のまわりに並べよう。いっぱいあるなあ。昨日、ホームセンターで大きなコルクボードを買ってきたんだ。これにキーホルダー類をピンで止めていこう。
 その前に、まずは朝御飯を食べようか。テレビでは東山紀之さんがMCのワイドショーをやっている。テレビを見ながら、同時にパソコンでネットニュースを適当に流し見る。何のニュースを見たかは覚えていない。毎日のニュースなんてそんなものだ。

 日曜の朝にそんなことをしていると、頭が急に重くなった。

 ズシン。

 何の衝撃もない。痛くもない。「重い」としか表現できない感覚。
 何の兆候もなく、頭が急に重くなった。

 頭が重くて、勝手にどんどん下がっていく。重い。

 頭を上げることができず、正面を見ることもできない。何だか分からないが、これは明らかに何かがおかしい。何だろうこの感覚は。初めての感覚。若干の気持ち悪さもある。でもそれよりもとにかく頭がものすごく重い。
 新型コロナに感染したのだろうか?
 とりあえずベッドに行って横になろうかな。朝御飯を食べるのはちょっと厳しそう。アルパカの毛刈りを見に出かけるまでに治ったらいいなぁ。

 ベッドへ行こう。
 椅子から立ち上がろうとしたら、その場に倒れた。

 ペシャッ。

 ……あらら。
 立ち上がろうとした時に椅子の手すりに体重を掛け過ぎて、滑ったのかな?
 部屋の中で転んじゃった。ジジイかよ。ふふふ。自分で笑っちゃう。

 さて、起き上がろう。
 ……とするんだけど、身体に力が入らない。変な倒れ方をして腰とか背中とか打っちゃったかな?足を捻っちゃったかな?嫌だなぁ。今日はこれからアルパカ牧場行くのに。
 何とかして起き上がろうとしてみるけど、全く起き上がれない。身体に力が入らない。痛いところは特にないようだ。骨折とかの大怪我ではないと思う。だけど動かない。

 何だこれは?

 何がどうなってるんだ?

 何なんだ?

 何だ?

 しばらくモゾモゾしてると、全身が全く動かないのではない、ということが分かった。
 ちょっとだけ冷静になって身体の動きを確かめると、右手と右足は動くようだ。でも左手と左足は全く動かない。根本的に力が入らない。
 右手と右足だけで起き上がろうとしたけど、無理だ。起き上がれない。無理。どうしよう。

 あ、もしかして。
 動かせる右手を上に思いっきり伸ばしてみると、仕事机の天板に手が届いた。掌を動かして探ってみると、スマホがあった。やっぱりここにスマホがあった。
 スマホを掴んで顔の前に持ってきた。そして、119に掛けた。

 しばらく待ってると、「入りますよ!」という大きな声が聞こえてきて、救急隊員の人達が入ってきた。
 僕の意識があることを確認されて、「保険証は?部屋の鍵は?」などと聞かれて、置いている場所を指差して教えてから、ストレッチャーで運ばれて救急車に乗せられた。僕は身体が大柄で体重も重いのので、部屋から僕を出すのが物凄く大変みたいで申し訳なかった。

 初めて救急車に乗った。へぇ。救急車の中ってこんな風になってるんた。色んな機器が備え付けられてるんだ。凄いねぇ。だけど扇風機はショボいなぁ。なんか笑っちゃう。
 救急隊員の人はニュースでよく見かけるあの青い防護服を着ている。僕が新型コロナに感染してるかもしれないからね。「最近また感染者が増えてきちゃいましたよねぇ。大変ですねぇ」なんて世間話をした。いや、しようとしたのだが、呂律が回らなくて上手く喋れない。
 救急車の中で体温や血圧を測る。そらからすぐに近くの病院に行くのだろうと思ってたのだが、発車するまで結構時間がかかる。体感的にはものすごく長くて、あくまでも体感的には1時間くらい待ってから走り出した。

 どこかの病院に着いた。
 救急車のストレッチャーから病院のベッドに移るのだが、5人くらいの看護士さんと救急隊員さんに囲まれて、みんなに「よいしょ」と持ち上げられて移動した。ベッドから足がはみ出る。「大きいねぇ〜」なんて言いながら笑ってる看護士さんがいる。僕もその雰囲気で緊張が少し和らで笑った。家族の連絡先を聞かれたので、結婚していないことを告げて、スマホに登録してある連絡先から実家の電話番号を見つけて教えた。
 CTで全身を撮られ、服を脱がされ、身体中に色んな器具を付けられた。パンツも脱がされて尿の管(カテーテル)を付けられて、紙オムツを履かされた。
 この時、僕は自分が動けない危険な状態であることをようやく初めて実感し始めた。

 そうこうしていると父の声が聞こえた。いつの間にか僕の横に父が立っている。「大丈夫だ。心配するな」みたいなことを言っている。
 でも僕はそれで安心する気持ちよりも、正直なところ「何が大丈夫なんだろう?」という疑問と、「情けない格好を見せちゃったなぁ~」なんていう恥ずかしさのほうが大きかった。

 そしてそのまま僕は病院の中を運ばれていった。
 いつの間にか病院のパジャマを着ていて、あぁ、そういうことか、と気づいた。
 僕は入院するんだ。
 唐突に入院生活が始まった。

 僕は、脳出血したらしい。

 後から考えると、僕が救急車を呼べて今こうして生きているのはいくつもの偶然の幸運があったおかげだ。
 自分の部屋で倒れた事。倒れた時に上半身が仕事机の方になった事。スマホを仕事机の端に置いていた事。
 もしも椅子から立ち上がって一歩でも動けて離れていたら。倒れた時に頭を打って気を失っていたら。倒れた体勢の上半身が机と逆方向に倒れていたら。スマホを机の端ではなく中のほうに置いていたら。どれかひとつでもあったら僕はスマホを手に取ることができず救急車を呼べなかった。

 もしも歩けてベッドへ行けてしまって寝てたら、そのまま終わっていたかもしれない。
 もしも車を運転して出掛けていたら、大勢の人を巻き込む大事故を起こしてたかもしれない。

 部屋の玄関の鍵はどうなっていたのか。救急隊員の人達はなぜスムーズに部屋に入って来れたのか。日曜の朝からどうして玄関の鍵が開いていたのか。自分では覚えてないけど朝に何らかの用事があって鍵を開けて外に出たのだろうか。それとも前の夜から鍵を閉め忘れていたのだろうか。
 部屋の鍵が閉まっていて救急隊員の人達が入ってくるのが遅かったら手遅れになっていたかもしれない。

 部屋の玄関の鍵が開いていて、ちょうどいい場所にスマホが置いてあって、そのスマホに手が届く場所に倒れた。奇跡的な幸運の連続。
 だから僕は生きている。

 僕は自分の人生に意味を見出せないでいた。生きることの目的が分からなかった。結婚できす、子供もおらず、仕事が大成功して金持ちになったわけでもない。絶対にやりたいことも必ず叶えたい夢もない。積極的に自殺しようと思ったことは無いが、いつ死んでも構わないと思っていた。
 でも、実際にその瞬間がすぐ目の前に迫った時、僕はこのまま死のうだなんて全く頭に思い浮かばなかった。真っ先にスマホを探してすぐに119していた。
 いつ死んでも構わないなんて心の底では思ってなかったのだ。僕はまだまだ生きたいのだ。

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