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脳出血入院記(13)2022年10月 ラストスパート

 リハビリの先生から、「どういう風になったら退院できると思う?」と聞かれた。
 はぁ!?それはこっちが聞きたいわ!と思ったのだが、とりあえずパッと頭に浮かんだことで、「歩けるようになったら?」と答えてみた。
 先生は「うーん、ちょっと違うかな」と返してきた。「歩けることは重要だけど、それも含めて、日常生活でよくやる基本的な動作が安全にできるようになったら」
 なるほど。リハビリの先生がひとつひとつ説明してくてるようになって、納得できるようになった。

 自分専用の装具を作って、歩くリハビリが順調に進んだので、病室での過ごし方が次の段階に進んだ。
 自分の病室からトイレに行く時は、車椅子に乗らずに、自分で装具を付けて歩いて行くことになった。ただし、1人で歩くのはまだ禁止で、トイレに行く時はナースコールを押して看護師さんを呼んで付き添って貰う。トイレ以外の移動にはまだ車椅子を使う。リハビリ室に行くのもまだ車椅子。絶対に勝手に1人で歩かない。
 歩く練習をたくさんしたいので、トイレに行く回数が増えた。何もない時まで無駄にトイレに行ったりはしないけど、トイレに行きたくなったら直ちにトイレに行くようにして、できるだけたくさん歩くようにした。
 トイレに行く度に自分の中でちょっとした課題や目標を作って、こういうところに気を付けてやってみよう、こんなことを試してみよう、などと歩き方をちょっとずつ微調整して、練習した。

 ある日の朝、僕がいる病室のほうからリハビリ室に行く時に通る廊下の一部を通行止めにするので、「こちらの病室の人達は今日のリハビリを休みにする」と連絡が来た。廊下に暖房を設置する工事をするらしい。以前から病院内のあちこちで工事をやっていたことは知っていたが、それが遂に近くまで来てしまった。
 僕は、出来るだけ病院とは喧嘩をしないようにしてきた。色々と思うことはあったが、少なくとも表向きは愛想笑いしながらそれなりに上手くやってきたつもりだ。でもリハビリの中止だけは絶対に我慢できなかった。

 ナースコールを押して看護師を呼んで怒った。「僕はリハビリをする為にここにいる。リハビリができないのならここにいる意味がない。リハビリに行かせろ」希望を相談するのではない。絶対に譲れない要求だ。愛想笑いなんてしない。僕が怒って言うと、その看護師は出て行き、ちょっと上の位の看護師が来た。同じことをもう一回言うと、その看護師も出て行った。
 僕は、看護師長が来いよ!って思ってた。看護師長と話したかった。この病棟のことなんだから、リハビリの中止という決定には看護師長が必ず関わっているはずだ。僕に「リハビリがまだ足りない」と言った看護師長が、このリハビリの中止についてどう説明してくるのか聞きたかった。僕は看護師長と真正面からバチバチに喧嘩するつもりで待っていた。でも、看護師長は来なかった。残念。

 少し時間が空いてからさっきの看護師さんが来て、「廊下を通行止めにするのを辞めたので、今日もリハビリできることになった」と言ってきた。出来るんなら最初からやれよ!ってまた文句を言いたかったけど、それは抑えて、看護師さんにお礼を言った。
 リハビリ室にいくと、リハビリの先生方がバタバタ慌てていた。大勢の人のリハビリが中止になったので、今日の仕事のスケジュールを変更したけど、やっぱりリハビリをやることになったので、また変更し直すことになってしまったらしい。ちょっと申し訳なかった。でも、僕1人が要求しただけでは一度決まったことが覆らないだろう。僕と同じ気持ちで、もっとリハビリをしたい、と訴えた仲間がいたのだと思いたい。

 僕はスムーズに歩けるようになってきて、自分に自信が付いてきた。だけどそれが過信になってしまい、普段からどんな動作でも気を付けることを忘れてしまった。
 車椅子でリハビリ室に行き、車椅子から筋トレ用のベッドに移動する時に、ベッドに付いた手が滑って身体のバランスを崩して床に転げ落ちてしまった。ドスン!と大きな音がリハビリ室に響き渡ったらしい。
 でも物凄く超ラッキーな偶然かもしれないけど、上手く転がって受け身が取れて、身体のどこも痛くならなかった。強がりじゃなく本当に身体のどこも痛くない。奇跡的に完璧な受け身。
 リハビリの先生が僕の身体のあちこちを動かしてみたり触ってみたりするけど、本当に身体のどこも何ともない。それからいつもと同じリハビリのトレーニングをやって、いつもと同じように動けた。

 だけどこの後、リハビリの先生と一緒に僕の主治医の先生に報告に行った。リハビリ中の事故は全て報告しなければならないらしい。主治医の先生には、原因は僕自身の過信だということ、身体は全く何ともないこと、などを説明した。それでもリハビリの先生は「自分の不注意」だとして何度も頭を下げて謝っていた。お世話になっているリハビリの先生にこんなに謝らせてはいけない。僕はあらためて気を引き締め直して、何気ない些細な動作でも気を付けるようにした。

 この後も、しばらく何日も病棟の中で色んな人に話し掛けられた。僕はリハビリ中に転倒して大怪我をしたと噂になっていたらしい。でも実際には怪我なんて全くしてないし今までと変わらず元気にしてるし、リハビリ室でガンガン動いてる。そんな様子を見て「大丈夫?」とたくさんの人にビックリされた。
 正直、いちいち対応が面倒臭かった。もう嫌だ。もう二度とこんな状況にならないように、絶対に危ないことはしない、と心に誓った。

 リハビリの種目に、マット運動が増えた。
 床に敷かれたマットで運動する。靴を脱いで装具も外してマットに乗って、まずはマットに寝転がってゴロゴロしてみる。床に寝転がるという行為自体が久しぶりで気持ち良かった。床のマットに寝転がるのは、ベッドに寝るのとは全く違う解放感がある。
 倒れて入院してすぐの最初の頃は、ベッドに寝ているだけで自分の身体の姿勢を動かすことすら出来なかった。定期的に看護師さんが来て寝返りさせてくれてた。それが、寝たまま自分でゴロゴロして姿勢を変えたり寝返りできるようになった。マットの上は広く使えるので、身体を大きく動かして体幹を鍛える筋トレをする。病院のリハビリって言うより、ほぼほぼただの筋トレ。

 マットに寝転がったら、当たり前だが、ここから立ち上がらなければならない。まずは、右を見ながら右腕で上体をグイッと上げて、横座りの状態になる。そして身体を回して四つん這いのような体勢になって、右足の膝を立てながら身体を起こして前を向くと、片膝立ちの状態になる。ここからはコツとかじゃなくて全力で頑張って、ウォリャ!と両足を伸ばすと、立ち上がれる。でも両足がガバッと開いていて不格好なので、両足を揃えて、真っ直ぐ立つ。ここまで出来てようやく「立つ」なのだ。体幹を鍛えるトレーニングであり、転んだ時に立つ練習でもある。
 立っているだけなら、杖を使わずに自分の足だけで立っていられる。でも、足を固定して支える装具を付けてなくて、マットがフワフワして柔らかいので、マットの上に立つのは物凄く不安定に感じる。

 マットの上に立っていると、先生が押してくる。すんごいイジワル。でも負けない。押されても耐えて踏ん張って立ち続ける。すると先生が更に強く押してくる。更に踏ん張る。でも更に更に強く押してくる。何度も押されて耐えられなくなったらマットに倒れる。
 倒れたら、立ち上がる。また押される。また倒れる。また立ち上がる。それを繰り返す。地獄の鬼の所業のようなリハビリ。

 そして数日後、トイレへ行く時に看護師さんの付き添い無しで1人で歩いて行っても良い許可が出た。
 何日か1人で歩いてみて何の問題もなく大丈夫だということになり、更に数日後、リハビリ室も1人で歩いて行くことになった。車椅子でリハビリ室に行っていた時は近く感じていたけど、歩いていくとけっこう時間がかかって、ものすごく遠く感じる。でも、歩いて行くのは楽しい。
 なお、1人で歩いて行っていいのはまだトイレとリハビリ室のみ。万が一の転倒や事故を考えて、1人で歩いていいのは行き先が明らかに分るその2ヶ所のみ。それ以外の用事の時はまだ車椅子を使う。とは言うものの、僕が毎日必ず行くのはトイレとリハビリ室くらいなので、その2ヶ所に歩いて行ければ充分。
 部屋にはまだ車椅子を置いてはいるが滅多に使わなくなった。全く乗らない日もある。何日かに1回くらいは乗る。たまに車椅子に乗ると早いし楽だし便利だ。疲れている時には、車椅子に乗っちゃおうかな?なんて思っちゃうことも正直ある。でも僕は歩く。
 僕は、歩く。

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