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詩)1月1日 能登
いまもいるような気がして
つい待ってしまうんだ
おまえがいなければ なにもできん生活やった
わがままばかりだったから おれといるのは嫌かもしれないけど 帰って来て
「はよ出して」
母ちゃんは崩れた家の下敷になってダメかと思ったけど俺を呼ぶ声がした時は本当に安心したよ。
どうして逝ってしまったの
「人生楽しんどるか」
耳の聞こえない母ちゃんはふとした時に考えさせる言葉をかけてくれた。子育てで忙しい時に「人生楽しんどるか」と言われてはっとしたよ。地震のあとヘリコプターでの移動や慣れない場所の生活に疲れたのかな 最後にかけてくれた言葉が「ありがとう」だった。一度きりの人生楽しむよ
「おはよう、私は今日も生きとるわ」
母ちゃんが1月4日危篤だと知らせが入り泥まみれの道路を4時間かけて行ったけど間に合わなかった。仮設で毎朝「私は今日も生きてるわ」って話しかけとるよ
「この道は俺が舗装したんや」
うれしそうに話してた。「草が生い茂ると車が見えづらくて危ない」と通学路沿いの草を全部刈ってた。特養で地震に遭い体調くずして逝ってしまった。
「これ、うめえな」
俺が作った食事を兄貴は黙々と食べてくれた。両親が亡くなって二人暮らし。地震後に「心臓が痛い」と言って入院「元気でおれよ」というと「おう」と答えてくれたのに。その3日後の未明、病院からの危篤を知らせる電話に出られなかった。急すぎるよ。
「あんたおらんと寂しいね」
亡くなった日は所用で仮設の家を空けていた。普段言わないことを口にしてたから、その言葉が胸に突き刺さっているんだ。母ちゃんと二人で一緒におせち食べたかったなあ。
「あと15年やるぞ」
あの時旅館「ホテル海楽荘」を買ったばっかりで借金もあった。お父さんは全国にセールスに行きお客さん連れて来た。「あと15年やるぞ」って地震のあともお客さん入れつつ修理してたけど、直し終わる寸前に水が来て仕事もお父さんも流しちまった。
話し相手がいなくて寂しくて
もう一度行き先決めずにドライブしたいな
唐揚げとかニシンのおかずうまく作れんよ
こっちは みんな元気でおるよ
毛布にくるまって
電気も水も止まって寒かったろう
俺もいい歳だ
残された時間は短い
だからおまえに
「今できることをやりなさい」
と言われている気がするんだ
1月1日が来ると
思うんだ
読売新聞 能登地震1年より、再構成
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