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それでも僕は祈らない。村上淳が辿った道の跡に残るものは

Mリーグ2022-23シーズンもいよいよレギュラーシーズンの20戦ほどを残し、佳境を迎えている。激しく順位が入れ替わる中位~上位と比して、序盤からずっと苦しい戦いを強いられている赤坂ドリブンズにとっては、この先はかなり難しい戦いが待っている。1週間前時点(2023/2月初週)よりは緩和されているものの、点差から逆算すれば、未だに平均して1日1トップが必須に近い条件だ。

さて、そんな苦しいチーム状況の中でも、一際苦しんでいる人間がいる。村上淳だ。
思い起こせば、苦難の日々は2020-2021シーズン最終戦から始まっている。

上記の記事でも紹介した通り、最終戦の村上の打牌は終始一貫しており、「現代的な意味合いにおいて」は完璧な黒子とも言える内容だったが、その意図が伝わらなかった視聴者からの猛反発を買ってしまった。ここに関しては記事内でも指摘した通り、我々視聴者のレベルアップだったり、実況や解説での補足、補強でもっと伝わり易くなる部分なので、次また別の人間が同じような立場に置かれることがあれば、同じような境遇にならないように、ということを願うばかりである。
しかしこの時の猛批判に晒された後の村上は、筆者個人の視点から言えば、例えば先述の騒動を受けて打牌が揺れていた、といったことは全く感じなかったが、結果だけを見れば信じられないような不振に陥っている。昨シーズンの不名誉な連続ハコラス記録に続き、今シーズンも2月に至っても未だにトップが取れていない状況が続いているのだ。現状のMリーガーの中においての村上の相対的な実力がいかほどかは筆者には測りかねるが、そういった次元の議論が吹っ飛ぶくらいの負け方である。

しかし、こんな不振の中だからこそ、村上が語る言葉から感じるものがある。こんな僅か数10戦の、悪い偶然が重なった程度で、真理を歪めてたまるか。そんな意志と気迫が、言葉の端々に滲み出ているように思えるのだ。

確率によって導かれる結果の偏りというものは、人間に推測出来るようなものではない。分散と期待値に支配される不完全情報ゲームにおいては、確率は常に不平等ではあるが万人にとって公平であり、結果論として「ツイてなかった」は論証出来ても「ツイている状態」の人間など存在しない。これは前回の記事でも紹介した内容であり、今ではよく知られているというか、正しく理解されることが多くなった事実だと思う。しかし、今でこそようやく常識化してきたこの認知さえ、ひと昔前は「非常識」の部類の話だった。

やれ、流れが悪いからダマにするとか、アガり癖をつけるとか、流れが悪い時に一発を消すと逆にツモられるとか、恐らくは最近麻雀を勉強しはじめたような世代にはちょっと信じられないような考え方が平気で流通していた。
こうした大きな欺瞞から小さい誤謬まで一つ一つを丁寧に潰していき、ロジカルシンキングが麻雀の世界の基礎となったのは、天野晴夫の歴史的名著「リーチ麻雀論改革派」に端を発し、村上自身も参加したオカルトバスターズを通して広まった「デジタル」(本来の語義とは異なるので敢えて括弧書きとさせてもらう)の潮流の功績と呼んで差し支えないだろう。

大敵であり、難敵であったはずだ。そもそも業界のトッププレイヤーでさえ平気で誤ったことを語ってしまうような世界だ。他のボードゲームでは考えられないような事象である。
ドラスティックにやれば、当然強い反発が来る。特に麻雀は技術論と精神性を結び付けて語ることが一つの情緒として成立してきた世界だ。使われる言葉一つとっても分かる。良い待ちを示す「好形」の対義語は何か。普通に考えれば「良い」の反対であるのだから、「悪形」と表現するのが自然だろう。しかし、日本のリーチ麻雀ではこれを「愚形」と表現する。悪い待ちではない。「この待ちに構える人間が愚か」なのだ。この表現一つをとっても、当時の古臭い麻雀がいかに強固なステレオタイプで固められていたのかは容易に想像がつくと思う。技術論の否定は、仮にこちら側にその意図が無かったとしても、「人間性の否定」と直結して受け止められかねない。当時の常識を変えるのは、まさに革命と呼ぶに等しい壮大なミッションだったのだ。
それも、当時はまだ肩書も立場も無い、無名とまではいかないが、間違いなくまだ若手の、業界内でも力が強いとは言えないところからのスタートだった。村上の盟友・水巻渉の有名な「終盤チー論争」は今の時代であればそもそも議論の余地が無いレベルで得しかないチーだと断定出来るが、まだ「流れ」の存在が疑われていない時代においては、村上/水巻の主張はまさかの劣勢であったと記憶している。
しかしそれでも、村上淳は逆流を掻き分けて真理を目指した。たかだか数回の不運が続いただけで存在し得ない因果を求めてしまうような安直な、軟弱な発想に囚われることなく、ただひたすら論理的に正着を求め続けた結果、今彼はあの席にいる。決して幸運と機会に恵まれただけの一席では無いのだ。

だからこそ、村上は確信しているはずだ。この程度の不幸な偶然の連続で、魂まで売り渡していいわけがない。

神にも仏にも祈らない。より良い手が論理的に導けたのであれば、そこは反省して次に活かせばいい。顧みても良い手が無かったのであれば、何も反省せず何も変えず、強い気持ちで次に向かうのもまた真摯な姿勢である。負けたから何かを変える必要があるなんて発想も、短いスパンの分散値の暴力に耐えられなかった軟弱な精神性が生んだ幻想なのだから。こんな内容を、村上は負けた際のインタビューにおいて(もう少し柔和な表現で)語っている。

この世界に至るまで、一体どれほどの、途方も無い啓蒙と、途方も無い努力を続けてきたのか。自分たちの考えが揺るぎない真実であると示すためには、長い期間をかけて結果を出し続けるしかなかったはずだ。まだそれぞれが無名の若手に過ぎなかった鈴木たろうや小林剛、村上淳が、それぞれの矜持にかけてビッグタイトルを何度も取り、麻雀というゲームに論理的なアプローチをすることの正しさを証明してきたことで、ようやく花開いた先に今がある。

心まで折られてたまるものか。村上の背には、ここまで積み上げて来た、ロジカルな麻雀を信じて研鑽を続けて来た全ての打ち手の矜持が乗っている。

もしかしたらこの先のドリブンズの戦いは、ある意味で大味な、選択の余地の無い場面が増えて来るかもしれない。それは麻雀の競技性的に仕方ないことだし、奇跡に近いレギュラーシーズンの突破を狙うのであれば、そうなるのも充分納得出来る。しかし、こんな状況下だからこそ村上淳にはまだまだ仕事が残っている。

「チーム状況的に、期待値がややマイナスでも分散を大きくする選択を取りました。結果良い目が出たのは偶然ですが、良かったです」

こんな具合に飄々とインタビューに応えることで、麻雀の面白さの本質をブレることなく語り続けること。それが村上が為すべき使命だと勝手ながら思っている。

現実問題、厳しいのは百も承知だ。それでも、僅か数戦で200ポイントくらいの上下が入れ替わっている現状を考えれば、全くのノーチャンスではない。直近の好調で、どうにかまだ目は残したままドリブンズはいよいよ最終盤を迎えている。ここまで来たらのなら、奇跡に等しいような逆転突破をどうか見せてもらいたい。

最後は、確率が支配する世界に、無粋な意味付けをすることを嫌う村上淳にこそあえてこの言葉を贈って締めたいと思う。

Good Luck, ずんたん

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