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麻雀急成長見聞録・僕たちは、言葉のナイフで世界を切り取りながら生きている

「ブロック数」の概念を知ったのが実は1年前くらいのことだ、という話を先日ツイートで書いたが、実は恥ずかしながら「ウイング形」という言葉は最近初めて知った。昨今の麻雀打ちの間では割と当たり前のように使われる言葉らしい。誰が言い出したのかは存じ上げないが、連続形の分類としては分かりやすくて良いなと感じる。今まであまり意識していなかったが、このウイング形を用いた何切るは広範囲の受け入れ差分を考慮する練習にもなって面白いものが多い。連続形に苦手意識がある人にはおすすめなので、検索して色々考えてみてほしい。もちろん、ウイング形についてはこの言葉を知る遥か前から、麻雀を打っている限りは何度も見掛けていた形であり、その度に受け入れと変化をカウントして最善手をひねり出すために長考していたんだろうな、と自分でも思う。が、この言葉を知ってから、ウイング形やウイング形未遂みたいな形が来る度にかなり意識するようになり、対処がパターン化されて判断までに使う時間が短くなった。これこそが言語化の意義だなとしみじみと実感できる経験だったので、今日は改めて言語化についての話を書いていこうと思う。

いきなりタイトル回収から議論を進めるが、人は言葉を以て世界を分節している。これはソシュールという言語学者によって提唱された理論なのだが、人は「名付け」によって世界を認知しているという考え方である。

これだけでは何を言ってるかわからないと思うので、具体例で説明しよう。
蝶(ちょう)と蛾(が)の話がよく知られているのでこちらを紹介したい。フランス語には、一つの単語として蝶と蛾を区別する言葉が無い。両方を指してpapillonと呼ぶ。もちろんそれぞれを区分する学術名称は存在するが、一般的に1語で表現されるので、普段の生活の中ではそもそも蝶と蛾を区別する習慣が無い。比して、日本語の場合で考えると、我々は「蝶」と「蛾」という言葉を知っているが故に、無意識下で蝶と蛾を見分け、多くの場合に「蛾はなんだか不気味だし気持ち悪い」「蝶は綺麗だ」といった情緒的な認知をしている。


もっと身近な例もある。「水」だ。水を英訳したら「water」になるだろう、と誰もが想像すると思うが、実はこれは違う。違うというか、正しい訳語が存在しないという方が合っているだろうか。知ってる人も多いかもしれないが、英語では水もお湯も「water」だ。どこからが水でどこからがお湯になるかという境目など無い。しかし日本人は区別する。水は冷たいもの、お湯は温かいもの。しかも、用途に応じて区別するのだ。摂氏39度のH2Oはパン生地生成においての分類上は常温の水だが、風呂桶に入れたらぬるめのお湯になる。とんでもない話である。我々は「水」「お湯」という言葉を使って文化というコンテクストの下に無理矢理H2Oを分類し、しかもそれを違った印象で捉えるという習性を持っている。
これで伝わるだろうか。我々は我々の自由意志の下に思い思いに感情や感覚を抱いていると誤解されがちだが、言葉やそれに基づく分類によって認知が支配されているのだ。
悪い言い方をすれば、「言葉が認知を歪めている」と言い換えても良い。

我々は名付けられた分類のものに世界を分類し、認知している。壁にランダムに刻まれたシミの中から、人の顔の形に似た箇所だけをはっきり知覚してしまうのと同様に、混沌に満ちた世界の中で、自分が名前を知ったものだけが浮かび上がって独立した物体として見えて来る、そんな空間を生きているのだ。

それが麻雀と何の関係が?と思うかもしれないが、これは麻雀に限らず、物事を修めるという行為全般に通じて重要な事実である。

語彙はくさびになる。246や579の形を人はリャンカン形と呼ぶ。それを知っているから何かあるのか。形と受け入れが分かっていれば、呼び方を知っているかどうかは些末な話ではないか、と一見思うだろう。実はこれを「リャンカン形」と呼ぶことを知っているのと知らないのでは、麻雀力に、正確に言えば麻雀力を向上させる力に大きな違いが出て来る。

実戦の配信動画でも戦術動画でも牌譜の検討動画でもいい。例として「ここは優秀な孤立牌と枚数が切れてしまったリャンカンの比較になるわけですが」というフレーズが出て来て、何を比較しているのかがパッとわからないのは大損だ。一つ一つの戦術理解を登山だと仮定して考えてほしいのだが、毎回毎回テーマに向かって1合目から登るのはとんでもなく大変なことである。これを回避するために、「語彙をくさびにする」という方法を使うのだ。冒頭に書いたウイング形もこの話に該当する。受け入れカウントするだけでも大変な上にどこがヘッドになるかもわからない複合形を、毎回毎回ゼロベースで考えるのは流石に大変だ。それを、「ウイング形」として頭の中にセーブしておけば、違う場面で似たテーマの形に遭遇した時も、前回までの知識をそのまま流用出来るようになる。7合目スタート、のようなショートカットが使えるようになるのだ。
なんだそんなことか、と思う方はいるかもしれないが、実はこの差は微差ではない。繰り返していくと途方も無い大差になる。知らない用語が出て来る度に、それを知っている人との理解度はどんどん差が開いていく。人は知らない概念を知ろうとする時、そして理解を更に深めようとする時、知らない語彙を意識的に獲得して、理解の幅を無理矢理拡張していくのだ。語彙を増やさない限りは、その語彙を前提とした次の複雑な概念への橋渡しはされず、永遠に単純化された世界を彷徨うことになる。単純で混沌とした世界から抜け出すために、人は言葉を覚えるのだ。言葉を覚えることで世界は広がる。そしてそれこそが自分を変えるきっかけになる。「なんとなく」で打ち続けて伸び悩み、成長のきっかけをどこに見つけていいかもわからない、というタイプに人はこれに該当することがよくある。特に、リアルでしか打てなかった時代と違って多少の専門用語すら知らなくてもプレー出来てしまう現代では、よりその割合は多くなったのではないかと私は推定している。もちろん、バランスを極めて「なんとなく」でもかなりの強者まで至っている例もたくさんあるので完全にこれを否定する気はないが、凡人にとっては茨の道だ。言葉を覚え、世界を分類し、考慮を深めていくのが成長のための正着だと私は思う。

話が逸れるが、「人に物を教えることで自分自身の理解が深まる」という経験は誰しもが経験したことがあると思うが、その正体はこれである。

少し背伸びして説明するくらいの内容がちょうどいい。覚えたばかりの、調べたばかりのことを頑張って自分の中で咀嚼し、専門用語を駆使してあたかも自分はよく理解しているかのように説明する。
この行動が、自分の理解を大きく伸ばす。繰り返していくうちに前提となる事象は流れるように説明出来るようになり、時間を掛けて考慮すべき事象がはっきり分かるようになってくる。

麻雀に限らない話だが、人はこうして成長していくのだ。新しい言葉、新しい概念を、自分で覚えて自分で使っていく圧倒的な知的好奇心。ここが飛び抜けて強い人は時にとんでもないスピードで成長し、周囲のプレイヤーを置き去りにするほどに成長を見せることがある。雀魂どころか麻雀自体を初めて触ってから2年前後で魂天になったプレイヤーを複数人知っているが、その全員が尋常ならざる知的好奇心を持っている。これもまた、楽しむことと、好奇心に任せて吸収を続けることがいかに成長に良い影響を与えるか、という証左だと思っている。

「自分ではこう考えたけど、変なことを言ってると思われたらどうしよう」
「一言で全否定されてしまうのが怖くて聞くのが怖い」
「今更過ぎてこの言葉の意味が聞けない」

背伸びして発信しようとすると、こんな感情が足枷になることがある。気にするな、とは言えない。私もそういったタイプの性格で、「こいつこんなことも知らないのか」と思われたくない一心で、事前に色々なことを入念に調べてしまうタイプだからだ。ただ、これが原因で何も言わずに成長しようとすると、まあなかなかに大変である。何せ、自分がどう間違っていて、どういった認知の偏りがあって、何を見落としやすいか。そんな無意識下レベルのエラーを自力で拾わなければいけなくなる。どうしても完全にオープンにして発信するのに抵抗がある人は、信頼出来る人を見つけて、その人にだけでも自分の思考を自分の言葉で開示して説明するという訓練がおすすめだ。

さて、最後に一つだけ、合わせて記しておかなければならないことがある。
この方法で背伸びしてアウトプットを続けていると、時にとんでもない思い違いや誤謬を世界中に晒してしまうという醜態を見せる可能性がある。
当たり前だ。元々が背伸びしているのだから。周りから見れば中には指を指して笑いたくなるものもあるかもしれないが、どうかそこは冷静に指摘してあげてほしい。自分の世界を広げてる道半ばのことだ。何も嘲笑しながら辛辣な言葉を浴びせ、同じ志を持つ人間を、コミュニティから追い出すような真似はする必要は全くない。
発信する方もまた然りで、明らかに間違えたな、と自覚出来た時には自分の間違いを認めるのもまた一つの重要な能力である。ここからは完全に私見だが、伸び悩みを抱えている人の中には一定割合、正しく謝れない、正しく反省出来ない、正しく間違いを認めることが出来ない、といった習性を大小あれど抱えていることが原因になっている人もいる(もちろん、そうではない人もたくさんいる)。素直に発信して、間違ったら謝ることが出来るのが成長できる人間だとシンプルに思う。

余談の余談になるが、人間は老化と共にこの「間違いを認める力」が衰えていくという。何歳になっても、知らなかったなあ、間違っていたなあと自分を顧みることが出来る人間で居続けたいと、心から思う。

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