シュガーポット、紙ナプキン
いろいろ6月の末に必死にやってたら、その必死なことじゃない方に頭がいってしまって、それで何個も作れたわけで、必死なことは結局難しかった。わたしはこうやって解られないように書くのがいつのまにか得意になって、日本語がうまく書けなくなってしまったんだとつくづくおもう。
「あのおばあちゃんいつもあそこでクリームソーダ飲んでるよね?」
きっとわたしの話だろう。
おばあちゃんと言われるような歳でもない。
だって61だから、でももうあの子達からしたらおばあちゃんなのだろうか。
突然、人に言われたことに己で気づきショックを受けることなんてよくある。流しのスポンジの泡の残りとか、チャックの開閉とか歯に青のりとか、ボタンのかけ違いとか。
悲しくて紙ナプキンを手に取る。
紙ナプキンは真っ白に、喫茶店での安心感を生む。その隣のシュガーポットもそこにいる、「いつでも開けるが良い」とばかりに。いわば絶対的な存在なのだ。
クリームソーダを飲むと舌が緑色になる。この緑色の舌をいくつになっても自分で見て、他人にも見せたくなる。
机にこぼれたソーダを紙ナプキンでサッと拭く。白が一瞬にして緑になる。
「いいなあこんな時間にクリームソーダを飲めて」
学生の言葉がいちいち気になる。
なんでこういう時、耳が遠くならないんだろう。浮気だってなんだって嫌なことは耳に入らなければないようなものだって経験則から知っている。どんどん肩身が狭くなる。
まだ来たばかりだが、早めに食べて外に出てしまおうかと、クリームソーダを早く食べようとする。すると友達の学生が、
「やることやってきたから、あの時間が生まれるんでしょ」
みんな納得して、勉強をしようとノートを取り出していた。
それまで生きてきた自分を、年下の子に認められただけで、60歳という長い年月が脳内でフラッシュバックした。あ、若い子は〜なんていう人がいるけど、ちゃんとわかろうとしていないだけだ。みんなが考えている。
「若い力で考えてやってみて」とか
「自由に斬新にやって」とか
そんなの建前で、すべての意見を潰す大人ばかりだ。わたしはそれを紙ナプキンのように色が移ってしまうことにも寛容的になりたい。
今頑張るか今手を抜くか、
それがすべての未来を作るんだななんて、
わかった私はやっぱり60歳で、歳をとっていた。
1日でお客さんがかわるがわるくる喫茶店で、シュガーポットと紙ナプキンのような古参の絶対的存在にわたしは社会でなれるのだろうか。