理解とは誤解の総体であるか。
「理解とは誤解の総体に過ぎない」とはどういうことか
村上春樹が幾度も言及しているこの言葉ですが、そもそも理解とは何に対して行われるものでしょうか。
理解とは、物事の道理に対するもののようです。例えばその対象は物性物理であり、他者の行動や感情であり、法律であり、あるいは文章であるかもしれません。とにかく広く世界の物事を指すものです。
村上春樹は文筆家なので、ここでは文章について考えます。
文章を理解するという行為
作者と読者の間には、どうしても一定の距離が存在せざるを得ません。たとえば村上春樹が長編小説を出版して、読者を集めて一文ずつ意図を解説しながら朗読するというようなことはありませんし、あったらナンセンスだと思いませんか。
やはり作者にも執筆過程での「イメージ」があります。このシーンはこういう雰囲気で、こういう気持ちが揺れ動いていて……あまり上手くない作者は、これをそのまま読者に伝えようとします。すると直接的な情景描写や心情描写ばかりになり、文学作品として極めて質の低いものになるのです。
では文章という媒体から、読者は何を理解しているのか。我々は本を読む時、何かしらのイメージを働かせます。そして読み終わります。理解は読後に行われます。
読者はこれまでの中で印象の強い部分を自動的に抜き出し、繋ぎ合わせ、印象の弱い部分を補完し、自分の中でもう一度作品の像を作り出そうと努めます。それが理解です。
するとどうなるかというと、それぞれの読者によって全く異なる理解が出来上がります。それはおそらく、作者のイメージとはかなりズレているものです。
この作者のイメージと読者の理解とのズレを誤解と呼ぶならば、理解とは誤解の総体に過ぎないと言わざるを得ません。
ここでもうひとつの名言について考えます。
理解なんてものは概ね願望に基づくものだ
イノセンスという映画に出てくる荒巻課長の言葉です。
読者が文章に対して行う理解作業は、実は読者の願望に基づいて行われるものです。読者の深層にある願望が、理解を読者にとって最も都合の良い形へと整形しているのです。
さらに言えば、読者の理解というものが願望に基づくものである以上、それは誤解の総体として存在せざるを得ないのです。
理解とは誤解の総体に過ぎないのか
先述のとおり、理解とは広く物事の道理に対するもので、文章も物性物理も他者の感情も法律も含めたその他ありとあらゆる物事はここに含まれます。
そして誤解とは発信者の意図と受信者の解釈のズレであると定義しました。
ですが、たとえば物理法則について考えた時、
中学校で習う物理の公式です。たとえばある生徒が密度は体積分の質量で求められると理解したとき、それは誤解の総体といえるでしょうか。
法についてはどうでしょうか。
公民を習った生徒が、天皇は日本国の象徴であると理解したとき、それは誤解の総体であると言えるでしょうか。
しかし法には発信者がいます。日本国憲法についてはGHQがそれに当たります。そして多くの法には多数の解釈があります。
最も有名なところでは
自衛隊が合憲か違憲かを巡る政治的闘争の例には枚挙に暇がありません。自衛隊違憲論だけでなく、武器輸出やPKOも政争の具になっています。その時点で第九条は間違いなく、多くの人に、それが政府であるか国民であるか、右翼であるか左翼であるかを問わずGHQの意図とは違う形で解釈されています。この時点で発信者の意図と受信者の間にズレが生じており、彼らの理解が誤解の総体に過ぎないと言うことが出来ます。
では法や文章と、物理法則の違いはなんでしょうか
おそらく答えは、発信者の有無です。
法や文章には発信者がいますが、物理法則には発信者はいません。たとえば相対論を提起したのはアルベルト・アインシュタインですが、物理学界で相対論が認められるまでには多数の研究者の承認プロセスがあったはずです。その意味で、物理法則の発信者はいません。ただ一般的法則として世界に存在するだけです。
こういったことは理学的な法則全般に言えます。
ですから、そもそも誤解を発信者の意図と受信者の解釈のズレであると定義した以上、誤解の総体に過ぎない理解というものは発信者が明確に存在する情報に対してのみのものと言えます。
理解とは
物事の道理をさとり知ること。意味をのみこむこと。物事がわかること。
でした。
理解の対象は発信者の有無を問わない有象無象であり、誤解の対象となり得るのは発信者のいる情報です。
よって、理解とは誤解の総体に過ぎないというテーゼは誤りであると言わざるを得ません。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?