「女性美術家」が近現代以降の芸術文化にもたらした新たな視点
ここに1枚の絵がある。シュザンヌ・ヴァラドンによって描かれた《自画像》*1だ。キャンバスいっぱいに書かれた女性の頭部が、全体的に赤の色調の油彩で描かれている。濃い黒の眉毛と一直線に降りてくる鼻筋、こちらを真っ直ぐに見つめる眼差し、そして上唇の片側を少し吊り上げていて、一目で意思と知性を持った女性だと言うことが分かる。ルノワールやロートレックのモデルとして描かれている彼女とは明らかに違う。リンダ・ノックリンによる著書「なぜ偉大な女性芸術家はいなかったのか」によれば、この問いかけ自体が「偉大な女性芸術家は存在しない、なぜなら偉大な仕事を成し遂げることは女性には不可能だからだ」という問題の本質を捻じ曲げた答えを内包していると言う*2。また近現代以前の美術史の中ではこの答えが明らかな正解となる様な、状況やバイアスがあったのは日の目をみるように明らかで、芸術の分野だけではなく、すべてのアカデミックな分野においてもそうであろう。心理学と言えばフロイトやユングなど。研究対象として、モデルとして、男性が産み出すものの授受者としての女性がいたのは、確かだ。以前に京セラ美術館で行われた「キュビスム展」に訪れた際にこの歴史上重要な芸術運動「キュビスム」にソニア・ドローネーという女性がいたことに驚いた。私自身の中にもアーティストと言えば「セザンヌやピカソやマティス、ウォーホルやバスキア」という無意識のバイアスがかかっているのは確かだ。
この美術史上の無意識のバイアスに光を当てていくのが「女性美術家」の美術史研究であり、近現代における女性美術家の作品を通した功績であろう。フランス人のニキ・ド・サンファールは幼少時に実の父親から受けた性的虐待による精神疾患の治療として絵を描き始めた。20代の後半に「射撃絵画」でデビューし、辿り着いた自身の肉体を謳歌する女性像「ナナ」の作品シリーズは、幼少期のトラウマを作品を通して彼女の中で変容させたことを物語っている。また草間彌生はセックスに対する強迫観念から作られるソフト・スカルプチュアや幼少時から見えていた幻覚である水玉模様の作品などを作った。70年代には≪ディナー・パーティー≫を発表したジュディ・シカゴは現在も自身の姿で作品を作り続けているし、写真家では80年代頃にシンディー・シャーマンが50年代のフィルムのステレオタイプ女性を演じたセルフ・ポートレイト写真集を発表した*3。こうした女性美術家は自らの作品作りを通し、内面化されたバイアスに立ち向かう。日本では石内都の写真集『さわる / Chromosome XY』*4が90年代に発表され、公に晒されることのなかった男性達の裸体を白日の目に晒した。つまり裸体にされてきた女性達の目線の前に置いた。この様に近現代の芸術文化において、女性美術家たちが、作品を作るという行為を通して、女性のアイデンティティを自らの目線で再構築し、この世界を見る新たな視点を与え、この見えないバイアスを塗り替えていくことを期待したい。