里山にて、藍のある景色を描く vol.1
〜木本景子さんと藍のこと〜
「はじめは、絵の方に藍を近づけようとしたけど、こっち(藍)が強くて。こっちが畑に連れていくんです」
そう語るのはアーティストの木本景子さん。爪を藍の色に染め、Tシャツの袖をまくりあげた彼女が「しろやま(1)」内にある藍染めの工房SHISHIBOBO FABRICS(2)で、出迎えてくれた。入口には、藍染の液を入れた大きな容器と、流しの横に藍の色見本。ここ最近の彼女の藍への情熱が伝わってくる。工房の奥には、描き途中の大判のキャンバスが立てかけてあった。私は以前、彼女のライブペインティングに足を運んだことがある。フルート奏者の音色に合わせ、大胆に筆を運ぶ。時折、絵と対話をするように静止する。静と動。相反する性質の中で生み出される彼女の絵には、心を解放する何かがあると感じた。
「うまく言えないですけど...受信機がここ(首のうしろを指差し)にあって。それを出すという感覚。それから、出したものがこっちにまた返ってくる。視覚的に受け取っている感覚や、過去から呼び起こされた感覚がある。色鉛筆、油、水彩、キャンバス、板、紙、など素材にもそれぞれキャラクターがあって。そのやりとりなんです。その素材と出会って、この画面の上に広がっていく。」
1977年、京都で生まれた。保育園の時から絵を描くことが好きだった。高校3年生の夏、友達が「景子、好きな事やらなあかんで」と言ってくれた。デッサンの勉強をはじめ、金沢美術工芸大のデザイン科に入った。しかしデザインと美術が違うことに気づき、夜中に絵を描いていた。ドイツの映画や美術の展示を見て、ドイツのカルチャーに夢中になった。「それでドイツに行こうとなって。ベルリンに行ったのが、1999年ですね。」ベルリンに移り住み、言語を学んだ。2001年春、ベルリン芸術大学に入学した。大学では、ローター・バウムガルテン教授(3)のクラスを選び、毎日夢中になって描いた。左右対称に思いつくまま曼荼羅や文字を、描く。雨を描いていると、雨から連想するものが出てきて、世界が広がっていく。ある時教授に「ここの一部だけを大きくしていったらどうなる」と言われ、小さく描いていたドローイングを、のびのびと描く様になった。卒業後の2005年からベルリンを中心としたヨーロッパのギャラリーで個展をはじめた。多い年は年に8回。彼女のウェブサイトにはドイツ語での記事が並ぶ。今年の2月にもスイスのギャラリーで個展「おくれる太陽」があった。今後もドイツ、メキシコで展示をする。
今なぜ日本に帰って藍染をすることになったのか。ひとつには、この場所で忘れられない夏休みの思い出がある。
「小学生の頃、叔父さんの家があった赤花(但東町)へ夏休みに遊びに来ていて、すごい好きな場所だったんですよ、ここが。 古いお家も好きで、寂れている感じも好きだし。昔の道具とか、わら靴とかもあったりして、もうジャングルみたいな知らない感じで、めちゃくちゃ好きだったんですよ、夏休みに来るのが。で、その場所がね、うん。なくなっちゃうっていうの、すごい寂しいなと思って」
叔父の家はゆずってもらえることになった。だが子供たちもドイツで生まれ育ち、日本に帰るのはまだ、だいぶ先かと思っていた。ベルリンでの生活が20年過ぎた頃、コロナが起こった。1ヶ月間アパートでの隔離生活。中学になったばかりの息子が「日本に行く」と言い出した。ドイツ人の夫が日本の伝統の手仕事の本を持っていた。その中に「藍」があった。「日本で藍を育てよう」と思った。地域おこし協力隊がきっかけとなった。この場所に2022年の春から住み始めて、藍と関わる日々が始まった。
「灰汁だけで藍建て*をして、オーガニックのふすまのご飯と貝灰をあげる*んですよ。そしたら、 発酵して、色が強くなっていく。やっぱ面白いですね、発酵は。今はもう、地面も発酵させようかと。菌で地面をフカフカにしようかとか。鳥もご飯盗みに来たりするんだけど。また彼らのフンが、種を運んでくれる。地盤が弱くなる針葉樹じゃなくて、広葉樹を増やしたいなとか。藍の灰汁は広葉樹だけを使うので。」
「お酒とかハイドロとかそういう化学薬品を使わずに昔のやり方を、いろんな方の力を借りて出来る様になった。藍で染めると、素材の質感が浮き上がってくる。藍を絵の方に近づけようと思っていたけど、これで十分なんです。」
藍の隣で無農薬の野菜も育てている。自分で育てた野菜や、畑で食べる食事は美味しい。様々な出会いが、全てが繋がっていく。「自分の名前が景子と言うんですが、なぜかなと考えていて。名前の表す通り、景色を作りたいのかなと思う。」彼女がライブペインティングをする姿と、見えない絵筆で森や畑のある里山をキャンバスに、景色を描いている姿とが重なった。その景色は今、藍も加わり、周りの世界と対話しながら、広がっている。