努力のハードルを下げるための詭弁

note初めて気づいたのは、意外と書きたいネタはある、ということ。下書きに現状5つくらいは書きかけの記事が転がってるし、まだそこまで至っていないものならいくらでも。

それでも思うのは、「続けるって難しい」、ってこと。書きたい、吐き出したい話は様々あれど、それを実際に言葉にするのはやっぱり難しいし、難しいからハードルが高い。ハードルが高いと億劫になってつい遠ざけてしまう。


努力したから成功するとは限らないが、成功した者はみな努力した

いつか誰かから聞いたこの言葉が本当だとするなら、すなわち

努力できない人に成功のチャンスは無い

ということになる。改めてこう書き直してみるとなかなか残酷な法則だ。なぜなら、「努力できるかどうか」は結局人次第、有り体に言ってしまえば才能だと思うからだ。

しかしこれをこう変えてみる。

継続したから成功するとは限らないが、成功した者はみな継続した

おおかた同じニュアンスの文が出来たが、まだ才能に依存している気がする。さらに改造する。

諦めなかったから成功するとは限らないが、成功した者はみな諦めなかった

ニュアンスはほぼ変わってないし、諦めた者が(諦めた事柄について)成功するはずもないので、概ね合っていると言えるだろう。

こう言い換えると何が起こるか。ハードルが大幅に下がるのだ。「努力」とは時に客観的に評価されるもので、冷徹に数字として現れることもある。つまり、「努力したかどうか」は自分ひとりだけではコントロール出来ない。

しかし「諦めない」はどうだろうか。誰かから「おまえは努力出来てない」と言われたところで、「いいや私は諦めてない」と言い返せる。つまり、「諦めたかどうか」は自分ひとりで完全にコントロール出来る。すなわち、目標に対し、心折れ、夢破れたりしない限り、まだ成功のチャンスは残されている、ということだ。

ここで反論が考えられる。「いや、諦めるかどうかは自分だけではコントロールしきれない。周囲の要因も絡んでくるからだ」というものだ。なるほど確かに、諦めざるを得ない状況に陥ることもあり得る。

しかしこの意見、どうにも視野が狭くないだろうか。短期的に見て諦めざるを得ないことも、「いつか成し遂げてやる」と胸に野望抱く限り、それは「諦めた」とは言えないはずだ。どんなに絶望的な状況でも、どんなに残り時間が少なくとも、「諦めない」という決意だけは抱き続けることができるはずだ。もっと言うなら、逃げたり辞めたり絶望したところで、それは広義での「諦める」には当てはまらない。「生きている」ということはすなわち、「諦めていない」ということなのだ。

まとめると、

生きているから成功するとは限らないが、成功した者はみな生きている(生きていた)

となる。そう。生きているだけで良いのだ。


もちろんこれは詭弁だ。諦めず、継続し、努力できるならそれに越したことはない。しかし心理的ハードルを下げることは出来た。心理的ハードルが高いと、些細なことで「諦めた」と認識してしまうかもしれない。それは本末転倒だ。だから、詭弁と知った上で、人生を楽観的に捉えてほしいのだ。

生きているだけで成功できるかも、と。

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