あの日の恋心は幻覚か狂気か
私は春も半ばの頃、春という季節に一度だけ恋をしたことがある。この「恋心」こそが論点である。
まず恋心が何であるかを定めねば、あの日の恋心が幻覚か狂気かを図ることはできない。
恋心とは、恋をする心。では、恋とは何か。
古今東西様々な本があり、恋や愛を題として取り扱ったものも多々存在する。しかし、いまだかつて恋や愛について過不足ない説明をし、万人を頷かせた本があるという評判は聞いたことがない。人間が言葉を紡ぎ、様々な文学作品を生み出すようになってから数千年の時が経ったが、それでもなお恋や愛の本質は完全に描き出されていない。
それはなぜか。
恋や愛の説明は、人の価値観に由来する。これが一番の原因であろう。恋や愛というのは、人間の知的活動の一種で抽象的なもの、感情や自己意識のような、自分の中にあって見ることのできない領域に存在する概念の一つだ。人はこれを理解しようと、自らの価値観や経験をもとに定規を生み出し、それをあてがってこれを測ろうとする。そうして出てきた測量結果を言葉に起こし、それを語る。
人の価値観などから出てくる定規が、メートルなどの規定の上に成り立たないものであることは、言を俟たない。
人の辿る人生は、素晴らしいことに二つとて同じ物が存在しない。それ故に、人の持つ価値観の定規は人の数だけ目盛りが違う。
では、恋や愛の実質的な説明は、可能か否か。
いずれでもない、というのが剴切だろう。
恋や愛は、個々人の中においてのみ実質的な説明が可能である。つまりはニンゲンという生物に普遍的に適応される恋や愛の実質的な説明はない。それは恋や愛が確立した形を持たない概念に過ぎないからである。
するとここで、私の恋心が幻覚か狂気かを審査することはできるのか、という二つ目の疑問が湧いて出てくる。
幻覚か?これは第三者の意見をもってして言われるべきものである。私に見えて他者に見えぬのなら、それは幻覚として間違いない。
狂気か?これも第三者の意見が必要だ。狂っているか否かは、その逆である正常がなければ評価できない。
つまりは私の恋心を幻覚か狂気かで評価するためには、万人に共通する「恋」の説明があって、ほぼ全ての人に見える「恋」の実体があって、ほぼ全ての人(マジョリティ)のする正常で普通の「恋」が存在しなければならない。
しかし、前半の私の考えを持ってすれば、先ほどの全ての「恋」はこの世のどこにも存在しない。
恋や愛の類は、人間の数千年に及ぶ営みの中で延々と紡がれてきた素晴らしいものだ。中でも愛というものは、人の行動や音楽の旋律、声や言葉など、様々な形をとって存在する。
私はこういったものたちが、いつまでも定義されぬまま、不明瞭で不確かなまま存在していてほしいと願っている。
誰も恋や愛の真を知らない。だから、この世には様々な恋や愛が存在する。恋や愛が決して定義できない不可思議なものである、ということを知らない者たちは、誰かの恋や愛を否定するかもしれない。だが、無知の知のように、我々が愛や恋の全てを知らないという事を知っていれば、そのようなことも起こり得ないだろう。
例えばその恋や愛が半ば受け入れがたく見えたとしても、本人が幸せならそれでいいではないか。恋や愛の類には正常も狂気もあるまい。無論、そういった恋や愛で非人道的な行いをしたのなら裁かれて然りだが、そうでないのなら受け入れればよろしい。どうしても受け入れられないというのなら、無視をすればいい。
恋や愛が人の幸せの一端を担っているのは既知の事実だ。人の幸せを否定する権利など、我々は誰一人として持ち合わせていない。その事を知らない者が多く感じるのが私の思い違いであることを信じたいが、どうだろうか、中々どうして難しい。
我々は恋や愛の実体を知らない。また、我々に人の幸せを否定するほどの権利はない。
これを知る者が増えれば。
ただの綺麗事だ、などと言い飛ばす人間ばかりでないことを強く祈るのみである。