ラヴ
私の書く小説を自分なりに分析したときに、必ずそこには都市の影がある。
私は都市部に近い場所に住んでおり、その住む場所も高層マンションが並ぶ大きな街である。ここには物心つく前から住んでいるため、おそらく都市のビジョンはこの街での生活が大きく影響しているのだろう。
私は都市というものが好きである。とくに夜の景色ほど好きなものはない。都市は巨大で、堅牢で、そして無機質だ。人が生きていく場所であるはずなのに、どこか人の呼吸を感じないところがある。鮮やかなモニュメントも、緑の葉を揺らす街路樹も、まるで死んだ人間が生きている振りをするように見えてくる。都市はどこか、人間の心を孤立させてしまう牢獄のような機構を内部に持っているようだ。私はこの点に興味がある。
携帯も牢獄の一つだ。電車やバス、歩道に横断歩道、エレベーターとエスカレーター、いたる所で人々は画面に目を囚われている。ふと顔を上げれば携帯よりも素晴らしい世界が広がっているというのに、彼らは画面の中にしか世界がないように振る舞っている。画面をスワイプするだけで延々と見ることのできる動画群。銃を持ったキャラクター同士の撃ち合いを題材としたゲーム。暴言や暴論が跋扈するSNS。たしかにこれらは、眺めているだけで娯楽を感じられる。無限に広がる巨大なインターネットの海の中で、ただ受動的に強力な娯楽催眠を享受し続けられるのが今日のWWWだ。私のクラスメイトも帰りの電車ではずっと携帯を操作してゲームをし、私の提起する話題に生返事しているばかりだ。飲食店に行っても、大抵の人々は携帯を操作してばかりで目の前の対話相手を見てすらいない。技巧の凝った料理の写真を撮って、自分の存在を周囲に知らせることばかりを考えている。
都市の発展や技術の発展は、この先急激に勢いを増していくことだろう。人間がAIをうまく手懐けることができれば、その勢いにさらに拍車がかかるだろう。だがもし人間がこれ以上の技術発展に晒された場合、どこかで人はその心を完全に閉じ込められてしまうように感じるのである。
技術発展を悪く言うわけではない。それはこの先さらに必要になるわけであるし、人間はその歩みを止めるわけにいかない。しかし必ずしも技術の発展が人間の豊かさに直結するわけでないと、今日日々思うのが事実だ。
薬を摂取し続けると、その効能が薄まっていくのは周知の事実だろう。それはインターネットの強力な娯楽においても言えることだと私は考えている。強力な娯楽を延々と享受し続けると、日常の些細な楽しみに気づかないようになっていくのである。
画面の向こうで起こる様々な娯楽、人間を「面白い」「可愛い」「格好いい」「楽しい」「羨ましい」と感じさせるものは、本来そう簡単に起こらない。またSNSの娯楽の平均は、日常生活で出会う娯楽の中でも特に面白いものたちと同じかそれ以上である。それだけに、インターネットで摂取することのできる娯楽というのは人間にとって危険だと私は思うのである。
幸せの青い鳥は、すぐそこにいた。これは有名な話である。メーデルリンクの『青い鳥』の結末を端的に表すとこうなる。結局人々が探す幸せというものは案外身近にあって、それに気づかないだけなのだというのがこの作者の伝えるところであろう。そしてSNSの強力な娯楽群は、この現象をさらに起こりやすくしてしまう。私が「心が閉じ込められてしまう」と書いたのはこのためである。
インターネットの娯楽群は人々の娯楽の平均を大きく上げてしまう。そしてある一点で、人と関わることよりもSNSの奴隷になるほうが良いと考えるようになるのだ。これが、私のクラスメイトや飲食店の人々の存在である。また、このシンギュラリティを迎えた人々はもうインターネットの牢獄から抜け出せない。
そして都市は、この現象にさらに悪影響を与える。携帯に目を囚われる人々は、無意識的に同じ都市を生きる他者の存在を消していく。そもそも都市というものが他者との繋がりという観念を薄めてしまうものであるから、その効力を強めるのが携帯といえよう。そして人々は、孤立した島のような集団を形成して生活をするようになる。私が都市を死んでいるように感じるのも、このためである。都市というのは身体であり、その中を行き交う人間が血液や臓器の役割を果たす。かつての町や地域というのが生きていたように感じられるのは、人々の大抵が孤立せずに一体化し、街というものと人々の輪というものが同じように存在するからである。しかし、都市というのはそうではない。人々は必要最低限の人間と関わり、すれ違う人々は他人として気にも掛けない。それが都市である。これだけの人が存在している一方で、個々人の中においては動く骸がざわめく巨大な空間でしかないのだ。また画面の牢獄に囚われた人々は、その動く骸さえ見えなくなる。だから巨大なイベントでトラックをひっくり返し、他者のことを考えない迷惑行為に及び、犯罪まがいのことを平気でするようになるのだ。インターネットが人々の心を麻痺させて、正常も狂気も感じられないようにさせるのである。
またインターネット囚人の若者の大抵は、手軽さという幻影にも囚われている。コツコツ続ける、というのが苦手なのである。それも、インスタントに娯楽を感じられる構造をしたSNSに由来する。仕事に励み金を稼ぐと、それを使う際に娯楽を感じるだろう。だが、若者はこの「仕事に励む」のがたまらなく嫌なのである。インターネットの娯楽を享受するのに努力は必要ない。それが当たり前なのである。だから、日常にもそれを求めるようになる。こうして若者たちは「日給30万」などと馬鹿げたことを吐かす犯罪行為に加担し、中年相手に平気で体を売るようになる。闇バイトやパパ活などと可愛らしい名前をもらっているが、ただの強盗殺人に売春である。擁護されたものではない。
人々の心は確実に廃れていっている。強力な娯楽と不努力の幻惑に心を囚われ、都市という巨大な監獄の中で孤独な生活を送っている。
しかし私はこの現代社会において最も危惧するものが他にある。それが人間の愛情である。
かつて流行していた「蛙化現象」というものをご存知だろうか?私はこれを非常に嫌悪している。この語のおおよその説明は、「一度好意を抱いた相手を、ほんの些細な行動一つで好きでなくなる」という何とも身勝手極まりない、くだらないものである。恋愛は若者たちの間で娯楽に成り下がっている。彼ら/彼女らの言う「好き」という言葉に一切の価値は無い。それはただの文字列あるいは音の連続でしかなく、その単語の持つ意味を知らないまま使っているだけである。
「他者に認めてもらいたい」という欲求を強めるのがSNSである。そしてこれによって肥大化した欲求が恋人という存在を求めるのである。それは恋の欠乏による叫び、あるいは孤独感によって感化された恋愛の琴線が弾かれることによって起こる欲求ではなく、もっと卑しい欲求である。承認欲求の奴隷たちが恋人を求めるのは、恋人がいるという事実のステータスに魅力を感じているからに他ならない。恋人がいないとできないSNSの投稿や発言、周りからの賞賛こそがそれらの求める全てである。だから、彼らは恋などしていないのだ。可愛い、格好いい、面白い、楽しい、そういった普段の感情の中に僅かな高鳴りがあれば、それを好きという感情に拡大解釈するだけである。だから彼らは、ほんの少しの失望で相手に愛想を尽かすのである。本当に相手を好きであるなら、その欠点までをも愛おしく感じるはずである。また気に入らないのであれば話し合って直すなりし、関係を継続させようとするのが真である。
「簡単に娯楽を享受したい」という欲求を生み出すのがインターネットである。そしてこれによって手軽さの捕虜となった人々は、恋人を次々に変えるようになる。相手に飽きれば捨て、また新しい玩具を手に入れるのである。そうしてまた味がしなくなれば捨てるのである。結局は恋人のいるという状況すらも彼らにとってはただの娯楽でしかなく、飽きれば捨ててしまえばいいという感覚で生きているのだ。そんな思考を、はたして「恋愛」などという高貴な名で着飾っていいものか。肥溜めに立ったドブネズミが小綺麗なクロークを身につけたところで、その悪臭や卑しさが美化されるわけではない。
昨今の若者の恋愛観は、確実に荒廃していっている。もはや彼らは真なる恋愛を「重たい」などと忌避している節さえある。
だから私は都市という無機質や不干渉の象徴を若者の恋愛観のメタファーとし、その中で文化的な真なる恋愛劇を書きたいと思うのである。
かつてウィリアム・シェイクスピアやスコット・フィッツジェラルドの描いたような恋愛がこの先忘れ去られてしまわないように、私は数多の小説家の一人としてそれを文字として遺したいのである。
無論、私は今の全ての若者がそうであるとは思っていない。だから、私だけが真実に気づいている!などと馬鹿なことを書くつもりはない。ただ今の私の周りの人間の話を聞くと、どうにも真なる恋愛が影を潜めているように感じるのである。しかし、私の非難するような恋愛でも彼らは幸せであるのだ。その点ばかりは否定できない。たとえ取っ替え引っ替えの恋人だろうと、それでも幸せを感じるのであればそれで良いとも言えよう。
このような恋愛観が世界を支配するのは、時代の流れが生んだ必然なのかもしれない。いつか私の書くような真なる恋愛は旧時代の遺物になるのかもしれない。それもまた必然であるか。