おやすみプンプンとDos Monosと小津安二郎。
おやすみプンプンを読んだ。
忘れた頃甦る衝動は性と暴力の形をとる、ような青春漫画で、私のような人間には縁遠い世界観であった。蛮習、晩春の原節子。
と、いうのも、
かの漫画本を読んでいる最中、Dos Monos「medieval」の脳内再生が止まらず(原節子云々はこの曲から)、つまりこの破壊的な脳内劇伴のおかげで作中の彼、彼女らがおっぱじめる度、私はシュールなギャグを眺める気分になっていた。
主人公、プンプンのなにやら哲学めいたリビドーが行き場を失い、ならば何か生産的なことに昇華でもすればいいのになあ、などと思えばプンプン、漫画家を目指してみたり、しかしまあ、そんな漫画は駄作だろうなあ、などと思えばこれ、編集者に手酷くやられたり、このおやすみプンプンという漫画は読者のかゆいところに手が届きまくるプロットなのだけれどそこはそれ、本題は小津安二郎の『晩春』についてである。
小津安二郎の『晩春』を見た。私は映画的教養を持ち合わせていないから、能狂言のシーンには退屈してしまったし(長すぎる)、旅館の寝室に置かれた壺の意味するところなぞ性的な隠喩しか浮かんでこないのだけれど、しかし素晴らしい映画であった。
なにが、といえば笠智衆の芝居が素晴らしく、またその素晴らしさにことごとく笑えてくるのである。笠智衆とその妹とのダイアログのなかで、笠がくーちゃん?と聞き返すシークエンスがあるのだけれど、あれの異次元的なシュールさはなんなんだろうか。あるいは娘役、原節子とのダイアログでほんのわずかに笠がうなづくショット、しかも切り返して二回、あれは一体なんなんだ?
つまりそれは、私にとっていかなるコメディよりも上等な笑いであった。今まで出会った笑いのなかでも第一位だ、と言っていい。爆笑したわけではないけれど。
ところで本稿の冒頭、これはおやすみプンプンへの皮肉のようにも読めるが、しかし私の脳味噌はそういうわりには単純にできており、つまりメロドラマには滅法弱く、特にラストなどは流石に身につまされる感もあり、おやすみプンプンはけっして嫌いな漫画ではない、とだけ付しておく。