【a11yな思考メモ】ハンデとギフト
UIデザイナーとして、アクセシビリティについてゆるゆる学び直しているのですが、なんとなく思うところあって書き留めます。単なる思考メモです。
※ 書いてたらそこそこ長文になってしまいましたが、何か一大決心したとか悲観したとかではなく、ふと思ったことをメモしてたら筆が乗ってしまっただけです。
私のa11yとの関わり
私がアクセシビリティについて学んだのは2007年から2010年あたりでして、当時の上司から教わった、というか叩き込まれました。
ただ、「アクセシビリティ(以下、a11y)」という概念としてはあまり意識してなくて、「マシンリーダブルであること」「HTMLの構造が明確であること」「色覚の多様性を配慮すること」を当然のこととしてUIをデザインしている、みたいな感じです。(Webアクセシビリティとカラーアクセシビリティがごっちゃになってます)
積極性なく受動的に叩き込まれた身なので、特に他者を啓蒙しようとかは思わずにいたのですが、それでも「セマンティックでないHTML」や「色味が淡くて明瞭でない表現」を気持ち悪く感じるくらいにはa11y感が身に染みてまして、同僚やお客さんに「ここのコードはWeb標準に従いましょ」とか「ここはもう少しコントラスト上げましょ」と提案することはそこそこありました。そしてなかなかの頻度で却下されてきました。
共感されないのを不思議に感じる
開発効率性やリソースの投資に対する効果の薄さから拒否されるのはわかるのですが、開発対応の手間がほぼ無いような改善にさえ、「それをする理由がわからない(理由を理解する手間すら惜しい)」と却下されることが珍しくないです。
単なる私の説得力不足が原因とも言えるのですが、それにしても「なんでこれほどまでに共感されないんだ?」と首を傾げたくなる気持ちです。
で、a11yを「当然のこと」として捉えられる人って、何かしら「排除された経験のある人」なのでは?とか最近になって思いまして。
当然のこととしてa11yに共感する人とは
私が以前に在籍したある組織に「a11yやっていき部活」みたいな有志の活動があったのですが、そこに参加してるメンバーにはLGBTQや発達障害とかの当事者や身内が多かったように思います。
私にa11yを叩き込んだ上司も、発達障害持ちでした。
そういう、社会から排除される側に立った経験を持つ人が、(自分の観測した限りでは)a11yに強く共感できるのでは?と思っています。
私も吃音者であり、口頭でのコミュニケーションが不可能だった経験があります。
10代のころは吃音がひどく、伝えたいことを声に出せることは5%くらいだったと思います。伝えたいことが口頭で伝わったことは1%も無かったかと。
その頃私にとって他者との会話は「発声の練習」や「吃音症状の法則性探索」であり、コミュニケーションを目的として他者と会話することはほぼ有りませんでした。丸1週間全く発声せずに相槌だけでやり過ごす、なんてことも一度や二度では無かったです。
インターネットの無い、対面と電話が主たる情報伝達手段だった時代に、この状況はなかなかハードでした。
今まで吃音とa11yを関連づけて考えたことは無かったのですが、口頭で全く発話できない、誰にも問いかけることができず、自分の意見や考えを発してフィードバックを得ることもできない状況は、情報アクセシビリティの観点で捉えるとなかなかに非アクセシブルであると言えます。
私がa11yを「当然のこと」として捉えてるのは、上司から叩き込まれた知識や価値観から来ていると思っていたのですが、さらにその根っこに吃音という、コミュニケーションや情報から排除された経験があるのでは?とか考えています。
(私に関わった人や組織は私を排除したつもりは全くないだろうし、他者や社会を恨みに思ったりはしてないです。悪しからず。)
ハンデをギフトにリフレームできるかもしれない
a11yは、昨今ではデザイナーや開発者にとって意識すべき概念として認知され、a11y向上スキルへのニーズも高まっています。
この状況は、私にとってハンデだった吃音が、a11yのスキルとか素養とかそういったギフトと呼べるものに置き換わりつつある、みたいに考えても良いのかもね、とか思ったりしてます。
デザイナーという職に就いていること自体、口頭以外でのコミュニケーション手段として可視化を頑張った成果と言えなくもないですし。
(まぁだからといって、「吃音で良かった」とは流石に思えませんけどね。
もし神様が現れて「お前の吃音を治してやろう。ただしデザイナーとしての全ての知識・スキルを失うが良いか?」と問うて来たら秒で「YES」と返しますよ。スキルなんかまた習得すれば良いだけですし。)
この感覚を、身の振り方に活かしたいよね
いま私はフリーランスのUIデザイナーとして生きていて、若干無軌道な生き方をしつつ、今後の身の振り方について考えを巡らせています。
デザイナーという職域に居続けるつもりではあるので、今後何をデザインするにしても、ハンデのある人を排除することがないこと、または、排除しないよう努力することを、最低限のラインとしていきたい、と思います。
そしてできれば、ハンデをギフトとしてリフレームできるような、そういう影響を個人の思考や社会の仕組みにインストールできるような、そんなものを作る仕事がしたいものだな、と思ったりします。
などと考えたわけですが、なんというか、コレすぐ忘れてまた無軌道にワチャワチャ動き出してしまいそうな予感がしたので、noteに書き留めておいたわけです。
お読みいただいた方、こんな個人の思考メモにお付き合いいただきありがとうございます。駄文すみません。
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