八尺様を現世に降臨させる儀式
八尺様を現世に降臨させる儀式が始まります。
何はともあれ、八尺様を信仰する身としましてはテクノロジーの進歩によって信仰対象崇高対象畏敬対象を現出するという行為の目的は存在を感じるという、まさしくフィードバックする行為に他ならないですね。
感慨深い。
かくいう私は2ちゃんねるオカルト話が好きで、中高生の頃はよくその手の話を見聞きしていました。
勿論まわりにはそんな人いませんから、自分の中にだけ只々留め置くのみでした。
さりとて昨今の技術進歩のおかげで、ネット宗教ならぬネット信仰が可能になったという技術的背景があります。
私はこの大いなる儀式を行うにあたり、共に信仰する同士を集めたいと切に思っている所存です。
宗教と、信仰についてですがあまり大きな違いはないように思います。おなじくネット宗教もネット信仰もほぼ同意に感ぜられます。
一応、説明を明記しておくと
宗教は、英語でreligion。
一般に、人間の力や自然の力を超えた存在への信仰を主体とする思想体系、観念体系であり、また、その体系にもとづく教義、行事、儀礼、施設、組織などをそなえた社会集団のことである。
信仰は、英語でfaithと言ったりします。
「宗教」という語が、組織や制度までも含めて指す包括的な語であるのに対し、「信仰」や「信心」は人(あるいは人々)の意識に焦点をあてた語である。
ややアニミズム的といいますか、出身が沖縄ということが関係しているのかも知れません。
何はともあれ、輩(ともがら)と共に生き、輩と共に死すという古代からの信仰は大事にすべきように思います。大いなる偉大なる存在に対し、畏敬の念を抱くことは人間のような幻想人の特権であります。
かくいう私の父方のおばあさんは、アニミズムの影響を多大に受けた結果として、先祖崇拝に目覚め、伊平屋島という小さな島の神を信仰しています。
沖縄では、大岩や川などの無機物、キジムナーなどの怪異、アマミキヨなどの天孫降臨(神々が地上に降り立つ)が信仰対象としてあります。
幼き日の私は理解しがたかったのですが、中高生になりオカルトを知り、さまざまな思想を知り得てから理解し、親しむことができるのだとそういうモノなのでは無いかと今は思います。
これは以前書いた無知ゆえに起こる理解力の不足といいますか。そういったものがあるように思います。
ともかく、八尺様を贖う儀式スタートです。
淡々と、日記調に書いていければと思います。日付や出来事を記録していければと思います。
我々がコミュニケーションと呼んでいるそれは意識の共有であり、価値観の共有であり、信仰の共有なのではと時折思います。
何をもってコミュニケーションと呼ぶのかなどといった事柄を考える実験なのかもしれません。
人生は実験の連続です。実験なくして成果なし。常々そうありたいものです。実験しなくなったらあるいはいわんやおやといったところでしょうか。