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苦しさも喜びも知るひと
サッカー好きなら誰もが知る日本代表史上でもトップクラスのサイドバックと言えば?
何人か名前が挙がると思いますが、サッカー素人の私が一番に思いつくのは内田篤人選手です。
高校卒業後名門鹿島アントラーズに入団。数々のタイトルをクラブにもたらし、若くしてドイツの名門シャルケに移籍。日本人として初めて欧州チャンピオンズリーグベスト4に進出。
日本が予選リーグで敗退したブラジルワールドカップでも内田選手はひとり気を吐いていました。その後は怪我に悩まされ、シャルケからウニオン・ベルリンに移籍、そこから古巣鹿島アントラーズに復帰し、チームにこれまでの欧州での経験を持ち帰りました。しかし怪我の影響は続き、昨年8月惜しまれながら引退しました。
本当に素人の私がわかるくらいクレバーなプレーと、ヨーロッパに渡ってからは身体を張ったタフなディフェンスもこなす素晴らしい選手でした。
彼の書籍を読んでいる中で、クールな中でも熱い思いや、鹿島アントラーズに対する恩義など素晴らしい人間性が垣間見えました。
内田選手が初めて欧州に移籍したとき、日本人選手の欧州移籍がちょうど増えてきた時期でした。契約を満了し、移籍金が発生しない方が移籍先に金銭的な負担がかからず移籍しやすいことから、その形の移籍を選ぶ選手も結構いました。
しかし内田選手は自分の成長のために愛する鹿島アントラーズを離れるのだから、せめて移籍金というおみやげは残していきたい、と契約が残った状態で移籍を決めました。そしてクラブには1億円を超える移籍金をチームに残したのです。
またドイツ移籍後、内田選手がTBSの人気番組情熱大陸に出演したことがありました。そのとき内田選手はチームの監督が代わり、なかなか試合に出れずに苦悩していた時期でした。
そんななか内田選手は「若いときの苦労は買ってでもしろって言うけど俺お金もらって苦労してるんだよ。最高でしょ。」と言っていました。
なかなか試合に出れずに、普通なら腐ってしまいそうな時も、前向きでかつ感情の起伏を作らない彼に感心してしまいました。
また東日本大震災で被災地が苦しんでいたときのことです。内田選手は当時すでにドイツでプレーしていました。震災直後の試合で勝利したあと、サポーターに試合後に挨拶に行くときに、日本の被災された方々へのメッセージを書いたシャツを着てまわり、被災地に感動を与えてくれました。
そんな彼も引退して東京オリンピックではコメンテーターとしてスーツで身を包んで落ち着いたコメントをしていました。
彼のようなしっかりと言語化して自身の考えを伝えられる賢明さと、欧州の厳しい舞台で積み上げた経験を持つ人が指導者として今後の日本のサッカー界を導いてほしい、そんなことをオリンピックを観ながら思いました。