春季大祭を前にして、明治20年陰暦正月26日午後の割書とおさしづを読む
1月26日は、天理教教会本部にて春季大祭が執行されます。この日を前にして、改めて表題の文章を味わいたいと思います。
(考察ではないですよ。味わいます。なので、大切な題材だけど記事は薄っぺらいです😅)
もう、いきなり本題です。
タイトルの「割書」をまず引用いたします。
おやさまのお身体に障りがあり、当時居合わせていた人々は、なんとかおやさまにご快復いただきたい、親神様のご守護を頂戴したい一心で、陰暦12月25日から1月25日までの1ヶ月間、毎夜(他の割書には「徹宵」という表現もある)おつとめを勤めたんですね。
しかし、いよいよおやさまのご身上が迫り、初代真柱である眞之亮様をはじめとする一同は、「命捨てても」との心定めと覚悟をもって、白昼堂々と、かんろだいを囲んでおつとめに取りかかったのでした。
この「割書」に至るまでの、おさしづ第一巻最初(明治20年1月4日陰暦12月11日)からの一連の“神人問答”は、とても緊迫していて、人々の毎夜毎夜の談じ合い、親神様への押しての願いの様子が、各割書からもその臨場感が炙り出されています。
私が直感的に注目したのは「時間」でした。
1ヶ月間、毎夜毎夜勤めたおつとめにもかかわらず、おやさまの容態は好転しない。
そして迎えた、立教に所縁ある26日。
この日の早朝に、
とのおさしづがあった。そして、おつとめの準備に取り掛かったのは「正午」、と割書にあります。
夜な夜な勤めた1ヶ月のおつとめの末、26日の夜が明けて、本来であれば“待つ理”の如くに、朝からおつとめの準備にかかるのが常だったかもしれません。ところが、官憲の取り締まり、そしておやさまの御苦労を慮って、人々はなかなか重い腰が上がらなかった。
しかし、親神様のお急き込みは激しい。
26日という大切な日を迎えてもなお、人々の「理と情」の狭間での苦悩、葛藤、逡巡は続いていたんですね。
そしてついに「正午」、“命捨てても”との強い信念でおつとめの準備をして、「午後1時」から26日のおつとめに取り掛かる。そして、おつとめを勤め終えるのが「午後2時」。
いわゆる祭典時間が「1時間足らず」!
早いっ!
と思ったのがファーストインプレッション。
ある先生は、おつとめに要した時間は実質45分だったそうだ、なんて仰ってました。
早いっ!
セカンドインプレッションは、鳴り物が三つだけだったこと。これにも驚きました。しかも、琴をつとめられた中山たまへ様は若干11歳!
“命捨てても”の心を定めた方々が少なかった、と読み取るのは早計ですよね。
ただただ驚きました。
だけど、それはそのまま「背水の陣」を敷いてのおつとめ執行だったということ。
こんな感覚、現代に生きる我々には到底想像し得ない心情ですよね。
親神様のお守りによって、26日のおつとめは、無事に勤め終えられました。
しかし、おやさまは現身をお隠しになった。
驚天動地。
今日までおつとめを勤めてきたのに、なぜなんだ。
その神意は、
「今からたすけするのやで」
「しっかり見ていよ」
「理が渡そう」
「理と情」。私が思い悩むこの事柄、親神様の理に徹し切った仕込みと、おやさまへの思慕の情と。このおさしづがきっかけです。
当時の先人方は、想像を絶するほどに思い悩んだんじゃないでしょうか。
しかし、ご本席様から聞かせていただいた神意を悟り、心を勇み立たせたんじゃないでしょうか。
だから今に続く道があるといっても過言ではないと思いますね。
おやさまがお隠れになって以後、道が途切れる状況になっていたかもしれない、だけど、今に続く道が確かにある。
先人たちのおかげですよね。
私は、おやさまのお隠れを、世界たすけへの新たな出発点とたすけ一条の親心を再確認する節だと理解しています。
悲哀を抱きつつ、しかし、万事、陽気に思案したいと思います。
1月26日、午前11時半から午後2時の間、138年前のお屋敷の様子を思い描きながら、春季大祭を拝したいと存じます🙏
言い訳がましく、、、
この記事の思案は私の“肌感覚”であって、教学を修められた先生方の考察には到底及ばず、しかも及ぼうとも思わず、陰暦正月26日の「割書」「おさしづ」を音読すればするほど伝わってくる、おやさまお隠れ当日に至る情景を追い、綴ってみたまでです。
そして、お願いがあります。
今回取り上げた「割書」に至る一連のおさしづは、現在公刊されている「おさしづ」第一巻の1ページから10ページの部分です。
後学のためにも、皆様方の悟り方や考察などを聞かせていただければ幸甚に存じます🙇♂️
春季大祭を、
より一層、意義あらしめるために 🙇♂️
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