明るい「いんねん」私考2
昨年(2023年)6月に、下の記事を書きました。何度か読み返しましたが、私の拙い文章力では、当時はコレが限界でした。
👇もしよろしければ、ひとまず👇の記事にお立ち寄りくださいませ👇
さて今回は・・・
「いんねんを納消する」
と、
「いんねんを持ち越す」
この2つで考えてみたいと思います。
あぁこんな考え方もあるんやね、ていう程度にお付き合いください。
とにかく「いんねん考」は暗くなりがちで、沼ってしまいそうで、イヤなんです。
ですのでネガティヴにならないように留意しながら書き進めたいと思います。
料理をしない私は(正しくは、料理が苦手な私は)、妻が料理専従で私はもっぱら食後の食器洗い専従です。美味しい料理をありがとう🙏的に嫌がらずに家族の食器を洗うんです。
帰宅がよっぽど深夜にならない限り、「洗い物はおいとってよ」と連絡しといて、帰宅後に食洗します。
ま、言い方は家族円満的模範行動ではあるんだけど、やっぱり「めんど〜だなぁ、、」とついつい不足がちにブツブツ言いながら洗う時も、そりゃ〜あるよね。ある。
ある時、「今日は疲れてるし、明日の朝に洗おうかなぁ」て思った瞬間、ふと、「明日の俺の一日は食洗スタートかぁ、、、。それはあんまり楽しくないなぁ」て思ったんです。
お!これって“いんねん”も同んなじやん。
明日、俺の新しい一日のスタートは楽しく陽気にありたい!と思うなら、今日、俺の一日は進んで食洗して気持ちよく終わろう。て。
つまり、
今日のうちに食洗を終わらせる
👉いんねんの納消
明日の朝に食洗する
👉いんねんの持ち越し
明日の自分のため、
今日のひと手間を惜しまない
来世の自分の豊かな暮らしのため
今世の信仰実践に励む。しかも勇んで。
これが自らの思考で完結できたなら素晴らしいなと思いますね。
まさしく、“いんねんの自覚”。
そう、いんねんは、人から言われるとなんだか嫌な気持ちになる。諭す側もよっぽど気配りをしないといけない。
中途半端なお愉しなら、しないほうがいい。
教理を責め道具に使うのはもってのほか。
いんねんは、自覚し、悟るもの。
さてさて、賢明な?私は、お風呂掃除も進んでやってしまう。
その日の湯舟のお湯をお洗濯に再利用はしていないので、家族みんなが入浴を済ませれば、お風呂場の用事はなくなってしまう。お湯もそのまま。
で、私はだいたいお風呂の番手が最後なので、シャワーの使用はなるべく控えて、湯舟のお湯で洗髪と身体の石鹸を洗い流す。
すると、残り湯も少なくなり、栓を抜けばすぐに流れ出るので、そのついでに湯舟をクリーン。洗い場も鏡も桶も椅子もクリーン。
湯舟や洗い場って、ヒト晩そのまま、翌日のお湯はり前まで放っておくと、湯垢やヌメリがけっこう残るんよね。
そうそう、学生時代、ほとんどシャワーでその日の入浴を済ませていた私は、浴室掃除なんてほとんどしなかった。たま〜に思い出したように掃除をしようとすると、これがけっこうガンコな汚れや垢になっていたのを思い出してしまった、、。
とにもかくにも、
明日の風呂掃除はけっこう大変
👉持ち越しちゃいましたねー
今日のうちに風呂掃除
👉お!納消できましたね!
明日の自分のハッピーのために
今日の自分が伏せ込んでおく
持ち越すとガンコな垢になる
心の垢もこびりつかないうちに気がついたら少しずつ納消しようね
こんなシンプルなものかもしれませんね、
いんねん考、て。
念のために。
食洗、風呂掃除、と身体作業を例に挙げたからといっても、いんねんを持ち越した姿には千差万別あります。
身体的だけではありませんね。
両親、パートナー、家、経済的、人生の岐路、人間関係、生まれた家、命の終焉の迎え方、等々いろいろですよね。
さて、もうイチ例挙げてみたいと思いますよ。
子供たちの夏休みの宿題。
私の住まう地域での夏休みって、40数日あります。そして、その日数に見合った宿題が課せられます。
この宿題を、いんねん、と考えてみますね。
子供達の脳裏には、何して遊ぼうか、プールに行こうか、いやいや、涼しいモール内のゲームセンターでしょ、などと今日の楽しみのことでいっぱいです。
そして、8月末ごろになって、あぁーー宿題どっさりーーと、あたふたしますよね。ま、ちゃんと計画的に宿題を進める秀逸なお子さんをお持ちの方には無縁の話しですがね。
親は皆、子供の宿題を気遣って毎日少しずつでも進めるようにガミガミ言います、宿題を持ち越さないように。
たまに子供は、はっ!となって思い出したように学習机に向かいますが、だんだん集中力が切れてきて、鉛筆を持ってたはずの手にはゲーム機。また親はガミガミ、、、。
私たち人類の親である親神様はガミガミ言いません。だまって私達をご覧になっています。
しかし、いつもいつも「たすけたい」との親心でいっぱいです。
時に、ガミガミと言う代わりに、“節”を見せてくださいます。“人生の宿題だよー”て。
宿題を背負った子供たちに、あとであたふたとしないようにガミガミ言うのは親心ですよね。そう思います。
明日の楽しい夏休みのために
昨日までの宿題をやらなかった自分を反省して
今日に少しでも宿題を進めておくんです。
人生では
🔹明日は来世
🔹昨日までは前世(前々世、前々々、、)
🔹今日は今世
大切なのは、今日をどう生きるか、ということでしょうか。
そんな意識を持ち続けることで、自分の明日がいかようにも変化してくるんですね。
明日やろうは
バカやろう
ていいますもんね。
いんねんの自覚、悟り方って、こんなもんでいいんじゃないでしょうか。
要は、今日の自分です。
人から言われないうちに気づくのがポイントですよね。
何事もシンプルに考えましょうよ💡
ちなみに1年前のいんねん考についての記事の結びはこんな感じでした👇
『人はみんな一人一人、幸せになることが出来るいんねんを持っている。
人はみんな「陽気ぐらし」が出来るいんねんを持っている。
そう信じていますよ。
親神様がそう仰るんだからね。
答えの出ないいんねん思案に縛られるのはやめとこ。
で、「先天的?」「後天的?」の答えはどうなったん?
そんなの簡単、先天的な道はどうしようもない、後天的な道は自分の心で作るんですよ!
6代以降の道は6代以降の子孫たちが作ればイイじゃん。
さぁ、明るい道の始まりですよっ❗️
心明るく、心晴天に、ニコニコいそいそと毎日をお過ごし下さい
ここまでお読みくださって大変ありがとうございましたっ
感謝感激感涙です😭
ではまた来週👋』
‥て1年前にnoteに書いてました。
そして、今週はオマケ付きでーす。👇
--オマケ--
本年の春季大祭での表統領さんのお話し。
30分足らずのご講話でしたが、最後の10分間あたりは能登半島地震に際しての内容でした。
あたり前のように、「ざねんりいふく」のおふでさきを引用されました。
そして、真柱様の年頭ご挨拶のお言葉を引用されました。
これに留めておけばよかった。
しかし、なんと、いんねんの教理を持ち出された。
これはいただけない(と、自分は感じた)。
喜べないこと、悲哀を伴うことが起こってきたときに限って、いんねんのお話を持ち出すのはいかがなものかと(私は)思う。
あらゆる事象には、当事者がいる。
災害の場合には、被災者がいる。
それらの方々の心をえぐるような話しはいただけない。あんまりだ。
春季大祭の講話、何度聴いても最後にはモヤモヤする。
このご講話(特に後半以降のいんねん話しのところ)をどのように感じとられたか、また機会がありましたらお聞かせくださいませ。
あ、ネガティヴになってしまった、、、
ダメですねぇ、、、
今週も最後までお付き合いくだり
ありがとうございました🙇♂️
また来週👋