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三昧田分教会のこと
本年の春季大祭がつとめられた翌日1月27日。
一緒に帰参なさった方々と、おやさまのご生家がある三昧田分教会に行きました。
三昧田分教会は、そう、私達のおやさまがご誕生なされたご生家が保存されているところです。
ですから、これは天理教あるあるかもしれませんが、「三昧田分教会に参拝に行きましょう」ではなく、「おやさまご生家を見に行きましょうか」という言い方をしがちですよね。
その意識下には、
「おやさまがお生まれになったところに教会が設置された」
という認識で、少なくとも私はそのように思ってきました。
そして、過日、三昧田分教会の沿革を調べて、はっ!となったんです。
おやさまがお生まれになった場所に、教会本部が三昧田分教会を設置した、のではなくして、松村吉太郎先生が布教をして、繋がった信者さんたちを丹精した末に誕生した教会だった!しかも、部内教会も数ヶ所あった!とのことでした。
以下に、ちょっと古めの天理教事典から、三昧田分教会の項目を引用致しますね。
三昧田分教会
さんまいでんぶんきょうかい
初代会長松村吉太郎は、昭和6年(1931)3月29日、三昧田及びその近郷に布教を開始。同年11月29日教会設立を出願し、同年12月13日奈良県山辺郡朝和村大字三味田443、444番地に、三昧田宣教所設立の許しを得た。また同時に礼拝殿及び付属建物の建築にとりかかり、昭和7年4月17日鎮座祭、翌4月18日奉告祭が執行された。
爾来、松村会長の熱と村人たちの真摯な信仰により教勢は日一日と発展し、布教開始よりわずか3年余の間に8ヵ所の部内教会の設立をみた。小倉紺屋町、六甲篠原、芝白金、中京児玉、阪旭、天大、中大門、天王台の各教所である。
この様に三昧田教所にも部内教会ができ教会としての内容も外観もほぼった昭和10年4月、本部にて「教祖様誕生奉祝旬間」が制定され、第1回の行事が華々しく催され、三昧田の役員信者は喜び勇んで参加した。しかし御誕生奉祝旬間が制定されるや、教祖御誕生の地である三昧田を離れて奉慶が行われ得ないのは当然の事で、それが故に三昧田にいるものの上にも、また部内教会の間にも何か特別な感情が生まれ、誕生祭の行事に三昧田の役員信者がどのようにして参加して行くかにも種々の問題が残されていた。
こうした状況下に、松村会長著「道の八十年」の中で「三昧田宣教所は私が会長であっても教会の理は教祖様の生家というところにあって、個人の教会ではなく、本質的には教派のものでなければならぬ。いつまでも私が踏み止まっているところではない。目的を果したのだから本部へお返し申さねばならぬと思った」と述べているように、教祖御生家という事に主眼目が置かれていた三昧田宣教所は、昭和10年4月の御誕生祭の制定と共に、会長は本部の誕生殿という建て前より、敷地を拡張し本部へその所有が移管されると同時に、ようやく出来た8カ所の部内教会は総て松村会長のもとの教会である高安大教会へ昭和10年8月18日を期して所属変更することとなった。
かくて三昧田宣教所はこれより誕生殿御守所という特別教会として改めて出発する事となり、今までの布教活動はひとまず終止符を打つ事となった。
誕生殿の確立をみるにいたり、本部人事として三昧田宣教所長の任命の件が議され、昭和11年4月17日付で、本部員村田勇吉が2代会長として就任した。
同時に誕生殿当番なるものができて、本部在籍者のうちより1名乃至2名ずつ毎日交代にて三昧田宜教所即ち、誕生殿につとめる事となった。
また、村田会長が本部の重職であり多忙であったため、常時教会に詰める事ができなかったので、本部青年、引原利喜が掛に任命され教会に住み込み、信徒総代も全部本部在籍者に変更された。
昭和16年4月1日教規の改正により、三昧田宣教所は三昧田分教会と改称する事となった。
昭和20年敗戦のため本部機構も変革され、教規改正、教理の「復元」が叫ばれ、これを期して人事の移動がなされ、昭和20年8月21日村田会長辞職し、新たに本部准員田中吉治郎が8月27日3代会長に就任した。
田中会長は、一家をあげて三昧田の上につくしたが、昭和23年10月16日、出直すにおよび、かねて古くより三昧田にあった信徒たちは、折角道の匂いをかけて頂きながら、その成人を見ていって貰う人、また信仰の道場たる教会のないのを残念に思い、なんとか教祖のゆかりのあるこの土地に、その生家の子孫に入ってもらって、信仰の喜びを共々に分ち合いたいと考え、前川勇次郎、福岡藤市郎の2名が、初代松村会長を尋ね、前川正通就任を願い出た。松村会長は真柱及び本部員会議にこれを議題とした末、誕生殿御守所としての三味田分教会を解消し、誕生殿と教会を二分し、誕生殿は本部の延長とし、教会は一般直属教会として再度出発する事になり、昭和24年4月16日、前者の主任に本部員中山慶太郎が、後者教会長に本部青年前川正通が就任する事になった。
新しい三昧田分教会が生まれるに至って、かって松村会長時代に出来た部内教会のうち「中京児玉分教会」は前川新会長の母前川柳の設立したものであり、昭和24年4月27日お運び三昧田の部内教会として発展の道を歩む事になり、同日、同教会を前川正通の妻おせいに担任変更する事になった。
かくして、誕生殿と一応別れた分教会は、元、教祖お目標を生家の座敷にお祀りしてあったので、これを昭和24年4月17日教会へ御遷座申し上げ、同日鎮座祭、翌4月18日鎮座奉告祭を執行し、5月20日には、2代真柱、現真柱をはじめ、初代松村会長の臨席のもとに、華かに会長就任奉告祭が執り行なわれた。
これより、今まであまり教会に顔を出さなかった村人達も自ら求めて教えを乞うようになり日増しに教勢も復活し、教祖70年祭の前年に「上名古屋分教会」が設立された。また教祖80年祭活動に入って昭和38年「三中京布教所」を開設、昭和40年4月「中京白菊布教所」同年10月に「上清洲布教所」を開設、更に教祖80年祭後、昭和43年2月「三旭布教所」「三竹葉布教所」「上城北布教所」「上柳原布教所」「上知多布教所」が開設された。更に同年3月に「三大和布教所」を開設した。
また、先に昭和36年8月26日、三昧田分教会付属建物屋根葺替増築並びに改造の許しを得、その後は昭和41年7月26日に付属建物屋根葺替増築改造並びに塀改築の許しを得て建物の整備を進めてきたが、いよいよ三昧田分教会の神殿建築を計画、昭和47年10月27日、その第1期工事として付属建物移動増改築及び内部改造の許しを得て、工事を行ない、教祖90年祭後には神殿建築にかかれるように信者室の拡充と境内地の整備を進めた。
〔現住所〕
〒632 奈良県天理市三昧田町443番地
電話(07436)6局0043
現会長前川正通
〔教勢現況〕
教会数2布教所数9教人28名
ふぼく(教人を除く)245名
(昭和50年12月31日調『天理教統計年鑑』昭和50年度版)
ね!
松村吉太郎先生が丹精なさった教会だ!ということがお分かりいただけたかと思います。
無知な私、目から鱗でしたよ。
そして単立教会と思ってましたが、今もご部内があり、かつて三昧田部属だったけれど高安大教会へと系統変更なされた教会も、ちゃんと高安系統図に載ってましたよ。
上記の引用を読むと、なんだか闇もありそうな気配もありますが、ま、そこはね、ほじくるのはやめましょうね。
1月27日に参拝に行ったときはどなたもいらっしゃいませんでした。
そりゃ、大祭の次の日ですから、ご本部での御用だと思いますよ。
綺麗に、丁寧に整理整頓された参拝場や玄関、お守り所でした。
神殿の右壁には、ドドーーンと掲額が!
はい、コレ👇
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なんだか、ブルっと身震いしそうな迫力。
これが目に入らぬかぁ!問答無用!
ではありませんが、何か迫ってくるオーラを感じましたね。
参拝を終え、神殿を出て、そのまま奥へ進むと
「天理教教祖誕生殿」へと進むことができます。
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続きは、また後日の記事にてご紹介したいと思います。
今週は、
三昧田分教会設立の経緯について、サラッと復習いたしました。
「サラッと」で留めておいたほうがベターな気がします💦
本教すべての教会の中で、“唯一無二の”、おやさまご誕生祭が4月18日午後に公式につとめられる教会、それが三昧田分教会です。
ありがとうございました😊
また来週👋