岡山寮のこと 其の4『「親」の思案』
其の1の記事で、本部派遣講師高田先生から賜った言葉について。
まず、“そうすれば私みたいになれる”
コレは、先生が何を指して“私みたいに”と仰ったのか。
素晴らしい教会になれる?
おたすけで御守護頂ける?
自身のご身上をおたすけ頂けたこと?
いづれにせよ、親神様のお働きをめいいっぱい頂ける、ということを仰りたかったのか。今となっては不明なので、この部分はおいときます。
さて、“親の言うとおりに勤め、親が喜ぶように勤め、親の期待に添って勤めよ”の部分。
当時の私は26歳。
この道の信仰のなんたるか?さえもまだまだ掴めていない。なので、単純に“親”を自分の両親のこととして捉えた。父親は現職の教会長でもあったので、シンプルにそう思った。
それからは、一日の日課の最後に、今日一日どのようにすごしたか、何軒訪問したか、おさづけ取り次ぎの有無、その他考えたことなどを便箋に書き、1週間分の便箋を封筒に託し、両親に郵送した。
両親は、私からの1週間分の便箋を泣いて喜んでくれていた。実は今でも大切に保管してくれているそうだ。
時折り両親からも叱咤激励の便りが届く。そして文末にはいつも「毎日手紙をありがとう。こちらも勇ませてもらってるよ。印象に残った手紙は信者さんたちにも紹介してるよ」とあった。
親の言う通りに歩んでいる。
親は喜んでくれている。
親の期待に添えている。
嬉しい。
私はすっかり、親=両親(所属教会長)だと悟った。
時は流れ、自分自身の信仰も少しずつ形になりかかった頃、おぢばで開催して頂いた「後継者講習会」に参加した。
講習会では練り合いの時間がけっこうあった。その時、“理の親”の言葉に苦しみ、信仰に葛藤する青年に出会った。彼は教会育ちではなく、教会長後継者でもない。
そう、「後継者講習会」というネーミングから、受講者は皆んな教会育ちの教会長後継者なんだと早合点していた。正しくは“道の後継者”なのだ。だから、一般信者子弟の方もいらっしゃる。その中に、彼はいた。しかも、信仰に葛藤しているという。
原因は「理の親(所属教会長)」
ふむ。
練り合い班の中では、「理の親=所属教会長」という、なんだか暗黙の諒解事のように話が進んだ。
「何が不足なの?会長さんの言うように勤めればいいやん。」と心の中で呟きながらも、その彼の話しを聴いた。
そして、親?理の親?と、心の中がモヤモヤしながら最終日の最終講となった。
最終講の場は、教祖殿御用場。
講師は真柱様。
お話しの中に「理」という言葉について触れられた場面があった。
曰く、
「皆さんは“理”と言う言葉をよく聞かれるだろうが、その意味において充分に理解できている人は多くはないはずだ。“理”と言う言葉を理解するには“親神様のお働き”と言う言葉に置き換えて思案することで理解が進むと思う。(要約です)」と仰った。
私は、「なるほどッッ」と、ビビビっとなった。
理は、親神様のお働き。
理=親神様のお働き=親神様の思召=親神様そのもの=理の親なる神様、という方程式が成り立った。
以来、件の高田先生の言葉は
「親神様の言うとおりに通り、親神様が喜ぶように通り、親神様の期待に添って通る」と変換されて今日に至っている。
これはあくまでも、自分自身が通って、体感し、思案し、納得して会得した信仰信念なので、人には押し付けないし、考え方の一つとして伝える程度にとどめている。
この点において議論するつもりは毛頭ない。
また3代真柱様作詞作曲の「親神様の守護」という大好きな歌があるが、このタイトルは“おやのまもり”と読む。
そう、親神様は「親」なんだ。
最後(だめ)の一点とは、親神様が元の神・実の神である、という一点なんだ。
この思案の仕方はとても心が明るい、混じり気がない、一直線である。
たとえ信仰的対人関係(という、あえて回りくどい表現)においても、余計な不足は生まれないし、いい意味で割り切れる。そして、この道の信仰とは、親神様と自分自身の心の繋がりを深める事なんだと、スッキリと整理がつく。
「親」の思案なくして、この道の信仰はあり得ないが、「親」をどのように捉えるかは銘々次第だ。
自分をこの道の信仰に導いてくれた人、所属教会の会長さん、上級教会の会長さん、真柱様。それぞれが「親」であっても良いと思う。
大切なのは、親孝行だ。
最後に、私の「親」の思案のまとめを。
理の親……親神様
教えの親…おやさま
導きの親…真柱様、会長さん
肉の親……(産みの、育ての)両親
「親孝行一条」で全て丸く治りますよね。
明るい信仰の始まりです。
これにて「布教の家岡山寮」の4部作を終わりにしますね。
今週も、そして岡山寮4部作にお付き合いくださいまして、たいへんありがとうございました🙇♂️
🔶🔶🔶 追 伸 🔶🔶🔶
いきなり「理の親」の思案や議論になるからメンドーだし炎上してしまうんよね。
そりゃ十人十色の思案の仕方があるんだから。
まず「理」と「親」を別々に思案する必要がありますよね。
その先に「理の親」の思案が成り立ってくるものだと思いますよ。
一足飛びに「理の親」がどうたらこうたら宣うからややこしい。
ややこしやぁーややこしやぁー😁
てゆーか、そもそももっと陽気に思案しましょーよ。
わかった?おわかり?