「たすかりたいから、たすかってもらいたい」へ
2024年1月末、とあるご部内の教会に2名のよふぼくさんが誕生した。60歳代のご婦人さんとその息子さん20歳代。
ご主人さんはずっと以前におさづけの理を拝戴なさっているよふぼくさん。教会の役員もおつとめ下さっている。
数年前、このご婦人さんが重い身上を患われた。症状はずいぶんと進行していた。
毎夜毎夜、ご主人さんのおさづけのお取り次ぎが始まった。
「なんとか、たすかってほしい」
と、一心に取り次いだ。
まだまだ子供の成長を見たいご婦人さんも、たすかりたい一心だ。
なかなか思わしくない病状だったそうだ。
それでもご主人さんは、親神様のお働きを願い、一心に祈り、そして寄り添う。
ご主人さん曰く、
「これまでいろいろとおたすけの話しを聞いてきたけど、まさか、ワシがこういう状況になるとは夢にも思わなんだ。もう、必死です。」
と。
ご婦人さんが、検査と治療のために入院した。
コロナ禍のこともあって、当時は面会ができなかったそうだ。
ご主人さんはいてもたっても居られない。
ご婦人さんのことが心配だ。当然だ。
毎夜毎夜のおさづけのお取り次ぎを思う。
ご主人さんは、自宅の神床の横に、ご婦人さんの衣服をハンガーで吊るした。
「ホントはおさづけの取り次ぎ方で、こんなやり方はダメなんでしょうけどね」
と、いって話してくれた。
「妻が入院中。コロナ禍で会えない。ワシはもう何もできない。
けど、思いついた。
お願いのおつとめや!て。
しかし、それでも心配や。
そうや、妻の服を吊るして、おさづけの取り次ぎや!」
と、吊るしたご婦人さんの衣服に向かって、患っている患部であろう服の場所におさづけを取り次いだ、毎夜。
祈りよ届け!
一心に親神様に向き合ったそうだ。
ご婦人さんの容態が落ち着き、体力もだんだんと癒えて、退院なさった。
実家を離れ遠方で大学院に学び、医療関係のインターンとして励んでいる息子さんがこう言った。
「俺、別席を運んで、よふぼくになって、お母さんにおさづけを取り次ぎたい」と。
その当時、ご婦人さんも息子さんも、別席は運び中だった。ご婦人さんはあと数席で満席。
「私もよふぼくを目指すわ」と、ご婦人さん。
息子さんは、時間を見つけてはおぢばに身を運び、そして席を重ねた。
ついに、母子そろって9席目を了えた。
現在、真柱様のご様態は、少しずつ快方へと向かっているそうだが、依然として、おさづけの理をお渡しくださる日数と人数は限られている。
ご本部から各直属教会に、“この日に○名、おさづけのお運びができます”との連絡を待つしかない。しかも、連絡のあった日におぢばがえりできるとも分からない。
満席を済ませても、すぐには事は進まないのだ。
所属の会長さんから、
「なんとか早くにお運びにならないだろうか」と相談があった。
お運びに日数と人数の制限があることは承知している。その上で、のこと。いわゆる、押しての願いだ。
ここは、大教会長さんの出番だ。
事の由を伝えて、このご婦人さんと息子さんがおぢばがえりできる日を申し込んだ。大教会長さんから然るべき人に連絡を繋いでくださった。
そして後日、「100%確定ではないですが」という前置きではあるが、お運びの日が決まった。
1月末、その日は依然として寒さの続くおぢばだった。
お昼頃、ご主人さん、ご婦人さん、息子さんはおぢばに到着した。
所属教会の子弟がおぢばで勤務しており、その日の午後は非番にしていた。おぢばに帰った3人を迎え、参拝し、願書を別席場へ届け、そして詰所へ。
休憩ののち第三御用場へ連れて行き、おつとめ着への着替えを手伝い(ご婦人さんは自身で着替えることができた)、そして、おさづけの理を拝戴するべく御用場へと向かった。
終始、ご婦人さんも体調良く運ぶことができた。無事に、よふぼく2名が誕生した。
その日は、おぢばでゆっくりと、親子3人は身を休めた。
息子さんが母親に、最初のおさづけを取り次いだことはいうまでもない。親にとって、これほどの喜びはあろうか。その感激たるや想像に難くない。
翌々日の午前中、無事によふぼくとなったお礼の参拝にいきます、と教会に連絡があった。
会長さんは、このご婦人さんにおさづけを取り次がせてもらおうと、教服に身を包んで来会を待った。
笑顔の3人が来た。
参拝。
ひと通りの挨拶ののち、会長さんが、おさづけを取り次がせてもらおうと申し出るより先に、ご婦人さんが、
「会長さん、おさづけを取り次がせてください!」とのこと。
実はこの会長さん、頸椎を痛めて四肢が思うようになかなか動かない。そのためのリハビリを繰り返す日々が1年以上続いている。
ご婦人さんは、会長さんになんとか良くなってもらいたいと願い、真っ先におさづけの取り次ぎを申し出た。
取り次ぎのつとめ方は、主人の所作を毎晩見ていたから承知している。
一心に取り次いだそうだ。
会長さんは、嬉しくて嬉しくて感涙した。そして、この時のことを思い出すたびに、今でも感激の涙が溢れるそうだ。
当教会の二月月次祭。
お元気そうな様子で、おつとめを拝するご婦人さんの姿が神殿にあった。
おつとめ着に身を包んだご主人さんも、いつも以上にニコニコと嬉しそうな笑顔で、おつとめを勤められている。
信仰の喜び、ここにあり。
たすかりたいから、
たすかってもらいたい、へ。
私たちの信仰の真髄である。