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「稿本 中山眞之亮傳」 拙い読後感を。
「稿本 中山眞之亮傳」について、先週まで長々と書き綴ってきました。
初めて本書に触れたのは、確か20代の頃。布教の家に在籍していた時期と記憶しています。
戸別訪問に勇めないときは、よくお道の本を読んでました。ただただ、勇めない気を読書によってまぎらわせていただけなのですが、、、。
そのうちの一冊、という程度の感覚。
なんとも申し訳ない態度の未熟な若造でした。
それ以後は、「よし、読もう!」と本書にまともに向き合ったことは、、、、ないかも知れん。
今回はよく読みこんだと思う。
そして、著者の上田嘉成先生が時折り披瀝する美しい文章。
それは眞之亮傳主人公の初代真柱様の心の風景に色彩を添えた、といっても過言ではなく、そのおかげで、いまこの書籍に触れる私にも、初代真柱様が近しい偉人として伝わってくる。
この記事を書いている時点で、先月来すでに3回目の再読となる。
ついつい斜め読みしがちなおさしづや祭詞本文も読み味わうことができた。
そして、本書を読むにつれて生じた疑問点は、“お道の知の宝庫”であるY.S.氏に尋ねて都度快答を得た。
あ、そうそう、彼が教えてくれた「中山眞之亮写真集」て本。コレ、おやさと書店で探したけどいまだに出会えてません。是非とも手に入れたい1冊です。
さて、「稿本 中山眞之亮傳」を読むにつれて、本教の発展は、ことごとくおやさまの年祭を一里塚として、それに正比例して右肩上がりしていることがよくわかった。
それは、初代真柱様の
『ああ、教祖は生きてお働き下さる。そのお働きを背に負うて、何でも彼でも御安心頂けるよう、御喜び頂けるよう、たすけ一條の道の發展をはからねば、との堅い決意が湧き起って來るのを覺えた。』
との堅い信念のもと全教を牽引なされた業績と偉業を鑑みればよく理解できる。
初代真柱様を突き動かす原動力、心根、それは『情』なのか、『理』なのか。
そんな、斜に構えたような俯瞰もあるかもしれないが、『情の中に理がある』という表現がなんとなくシックリくる。『理の中に情がある』とは似て非なる表現だが、こちらもまた不可避な思案方法かもしれない。
況んや「孝」然り。
孝心。
私は、本書拝読にあたって時折り「孝」の文字を連想した。
それはもちろん、初代真柱様の、おやさまに捧げる「孝」である。そして、加えていうなら、本書に数度そのお名前が表記された、義父である秀司様への「孝」。
15歳になった初代真柱様は、明治13年に中山家に移り住むようになったが、翌年明治14年には秀司様は61歳で出直される。
たった1年足らずの同居ではあるが、本教と中山家を守ろうとする秀司様のご苦心の背中に直に触れた、尊い1年だったはずだ。
義父秀司様の出直しの様子が、「稿本天理教教祖伝」第7章に描かれている。
秀司は、艱難苦労の中を通り、又、常に反対攻撃の矢表に立って、具さに辛酸を嘗めた。教祖は、出直した秀司の額を撫でて、「可愛相に、早く帰っておいで。」と、長年の労苦を犒われた。そして、座に返られると、秀司に代って、「私は、何処へも行きません。魂は親に抱かれて居るで。古着を脱ぎ捨てたまでやで。」と、仰せられた
おやさまからお聞かせいただいた、「私は、何処へも行きません。」のお言葉は、初代真柱様にとってどれほどの希望と力になっただろうか。
「父は常にお側に居てくださる」と心に刻んだに違いない。
ちなみに、秀司様お出直しの翌明治15年には、義母まつゑ様が32歳でお出直しになる。
そして、初代真柱様は中山家の家督をお請けなさる。
この年は、おふでさき17号執筆、飯降伊蔵様がお屋敷に入り込み、はたまた、二段まで石普請が進んでいた、かんろだいの頓挫と没収など、本教にとって濃厚な節目となった時期でもある。
この時期の初代真柱様の手記は胸に迫るものがある。
すなわち、「稿本天理教教祖伝」第9章にこうある。
○真之亮ハ、十五、十六、十七ノ三ケ年位、着物ヲ脱ガズ長椅子ニモタレテウツ/\ト眠ルノミ。夜トナク昼トナク取調ベニ来ル巡査ヲ、家ノ間毎/\屋敷ノ角々迄案内スルカラデアル。甚ダシキハ、机ノ引出し箪笥戸棚迄取調ベナシタリ。巡査一人ニテ来ル事稀ナリ。中山家ニ常住スルモノハ、教祖様、真之亮、玉恵、久ノミナリ。
と、真之亮は、当時、お屋敷に在住して居た家族中、たゞ一人の男子で、同時に戸主でもあったから、十七歳から十九歳に亙る若い年輩ながら、一切の責任者として、その巡査達と応待したのである。
“十七歳から十九歳に亙る若い年輩”
初代真柱様の、一般にいわれる多感な青春時代の実像は、この手記に綴られた通りの、色彩が無く、心を癒すものも無い日々だったと想像する。
後年、本教が一派独立となり、教校が整備され、多くの若者がおぢばに伏せ込んで研鑽に励まれる様子が、「眞之亮傳」に見受けられる。
初代真柱様は、こうした若者を愛した。
教校生の朝のひのきしんに共に励み、遊山にも共に出かけた。
そして、こう仕込まれた。
そして、常に青年達に言った。
「この道は、智慧や力で行く道ではない。どんな立派な事を話しても、どれ程力があっても、おさづけを頂きながら、おたすけが出來ぬようでは、道の落第者である。お前等は、道の落第者にならぬよう、心掛けねばならぬ。」と。
それは、初代真柱様ご自身の青春時代では味わえなかった、希望に満ちた明るい道の将来をこの若者たちに託し、おやさまがお付け下されたこの道を世界へ広め、心勇んで陽気に通り切ってもらいたいとの切なる願いが込められているように推察する。
まさしく、『ご存命のおやさまにご安心いただき、お喜びいただきたい』との一心てあったに違いない。
私はこれまで「理」と「情」は対極にあるものとして理解していたように思うが、どうもそうではなさそうだ。
理の中に情があって
情の中に理がある
という感覚を覚えた。
また今回連想した「孝」は、「理」と「情」のどちらにも根元がありそうな気もしてくる。
初代真柱様ご自身の母親の出里の親、つまりおばあちゃんは、おやさま。
そのおやさまに、「しんばしらのしんのすけ」と出生前から期待され、その成人を嘱望され、幼い頃から足繁く“おばあちゃん”の元に通って教化せしめられる。
いよいよ中山家の人となるが、わずかの期間にて義父母を失い、家督を背負い、かつ、親神様の御教えと中山家を守る。
ついに、明治20年陰暦正月26日を迎えたのが、若干22歳。
迫害は続く。
“おばあちゃん”が広めたこの真実の道を俺は守るんだ。
悲壮感しかない。
その根底にあったのは、やはり「孝」だろう。
その「孝」は、道の後継者たる若者に対して「親」の心として開花した。
「親」とは、おやさまの親心であり、ひいては親神様の無辺の御親心を身に体した、初代真柱様の姿である。
初代真柱様は、本教を牽引せんとする際の節々における心の角目を、逐一、御本席様を通して親神様の思し召しを伺い、剛毅果断に推し進めた。
それは、「情」に流されることなく、徹底した「理」の実行に他ならない。
おやさまにご安心いただき
お喜びいただきたい
おやさまをお慕い申し上げる
これは、「情」一辺倒ではなく、「理」の完徹であり、その背景にとうとうと流れる「孝」の息吹を味わうことができる。その先に、偉大な「親」の姿を見ることができる。
さて、ここで本書の前言に立ち戻りたい。
二代真柱様曰く、
稿本教祖御傅につぐ 天理教々會史の骨子をなすものである
と、その権威性を示された本書は、まさしく教会史に沿って展開された内容である。それが為に内容はいわば“歴史の教科書”の体をなすものには違いないが、時折りパッと明るく温かい描写にも出会える。
その最たるものが、第5章に描かれた
この明治38年4月23日には、長男が誕生し正善と名付けた。眞之亮は、その日記に、
「◯時長兒出生」
と、記して居る。
この一行の中に、40才にして、初めて長男誕生の喜びを味わった、眞之亮の嬉しさが満ち溢れて居る。
の部分。
この場面は、読み手の私にもその喜びがひしひしと伝わり、自然と笑顔になれた。
本書は、教会史の骨子たる権威本。
それ故に、実は初代真柱様の伝記でありながら、そのご家族のことはあまり描かれていない。
初代真柱様お出直しの時、のちの二代真柱様は10歳であった。
私たちが最初に接する二代真柱様の肖像は、いろんな感情が交差するような表情の、幼い男の子の近影だ。
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5週にわたって長々と「眞之亮傳」について書き綴って、今週の記事が最終となるが、これらのシリーズの締めくくりに、私はあえて以下の写真を貼り付けたい。
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幸せに満ちた初代真柱様ご家族のお写真。
二代真柱様、1歳。
“お姉様”は、御分家祖の玉千代様。
明治39年とあることから、本教一派独立以前、おやさま20年祭直前の頃。
そんな激動の時期にも、写真の如くに小さな春の一日があったことがなんとも言えない感動を覚える。
初代真柱様の足跡は、たまへ夫人によって委細もらさず二代真柱様に伝えられた。
たまへ夫人と若き二代真柱様によって、初代真柱様の心が受け継がれた。
「理」と「情」、そして「孝」。
さらに「親」の姿。
おやさまをお慕いし、
年祭活動を勤めきって、
“嬉しい心”で1年後の今日を迎えたい。
さぁ、立教188年春季大祭だ!
心晴れ晴れ。
「親」のおわすおぢばに向かおう💨
「稿本 中山眞之亮傳」シリーズ完結です。
お読みくださりありがとうございました。
また来週👋