飯降伊蔵ご本席様の四国巡教から数えて、今年は130年目の節目となる。
今から30年前、四国巡教100年目の年。大阪分教会ご一行さんが、当時のご本席様が辿られた道々を訪ねよう、とのことで大型バスで四国にやってきた。
そして、繁藤大教会にももちろん立ち寄った。
私は大教会前を走る国道32号線まで出て到着を待ちバスの誘導をした。
繁藤には、ご本席様お入り込み時にお使いいただいた座布団を大切に保存してある。
ご一行さんにもご覧いただき当時を偲んでいただいた。
そんな思い出がある。
今週はご本席様四国巡教について、一部分だけを綴ってみますね。
まずは「高知大教会年譜表」の明治27年の項から、四国巡教の概略を見ておきます。
文中、「分教会」とは、現在の高知大教会のことです。
ご本席様にお入り込みいただくことを願い出て、明治27年3月29日お許しのおさしづとなるわけですが、そもそもなんで?てなりますよね。
🔹ことの経緯をざっくり説明すると、高知初代様がある方からおやさまの赤衣を譲り受けた。「もう天理教の信仰はしないから、あなた(高知初代様)に差し上げます。」とのこと。
訝った高知初代様は、その赤衣が本物かどうか調べたが、はたして本物であった。
高知初代様は、この赤衣をご本部に一度お納めしました。
そして、改めてご本席様にお出張りいただいた上で高知の神殿にご鎮座を願ったわけです。
明治27年のご本席様四国巡教はこうした経緯で実現しました。
そして、高知は名実ともに本部直属となりました。芦津部属ではないのです。これについてはとてもセンシティブで触れてはならない暗黙の了解が存在しますがね。。。
🔹さて、4/13阿波池田の白地ハクチから繁藤支教会に至り4/14お発ちまでの様子を、繁藤大教会略史にて振り返ってみたいと思います。
今では、徳島県の池田から繁藤までは、国道32号線を使って車で1時間少々。
だが、長い長い年月を経て吉野川水系によって削られた四国山地を南北に貫く渓谷沿いを走る国道32号線は、今でも難所であり、その名も「大歩危・小歩危」といわれる名勝渓谷がある。
今でこそアスファルトの一級国道だか、130年前の道路事情。それは危険極まりない悪路だったことは想像に難くないと思います。
高速道路高知道も四国山地の中を走り抜けます。やはり年月のかかった難工事。工程の約半分がトンネルですよ。
🔹ご本席様の籠を担いでの道のりは想像を凌駕する、命がけの南下だったと思います。
その中、宿泊予定の宿をキャンセルしてまでも「繁藤へ、繁藤へ」とのご本席さまのお声に励まされて、夜遅くに繁藤大教会へとお越し下さったんですね。
繁藤大教会に大切に保存されている、ご本席様がお使いになった座布団。
「ちょいと見せてくださいな」
とは軽々には言えない重みを感じます。
また、「大切にするよう」とお褒めいただいた巨木は、いまでも元気に天高くそびえています。
ご本席様がお立ち寄りになった本教の布教拠点である教会は、高知、繁藤、伊野、越知みんな今では大教会です。
越知には、なんとお泊まりいただいた客殿が保存されていますよ。
国道32号線を折れると、繁藤大教会はあります。どうぞいつでもご参拝くださいネ。
客間には、ご本席様によるご揮毫があります。
16泊17日の四国巡教の一部をご紹介いたしました。
いかがだったでしょうか。
四国にお越しの際は、ぜひ、各教会にお立ち寄りくださいマセ。
さて、皆さんの中には、ん???と引っかかっている部分がありませんか?
高知大教会年譜表の一文です。
「今渡そうと思えども今は渡すことが出来ぬ。追って渡す日がある。」
とのお言葉。
なんなんでしょうね。
このアンサーが高知大教会史に記述されています。👇
親神様の御計りにや。
ものすごい重みと高知初代様のお徳を感じずにはおれません。
16泊17日。
現在では、鎮座祭と奉告祭とで2泊3日で勤められる日程です。
先人は、時間をかけて、時間を大切にして、胸から胸へと御教えを伝え広めることに丹精してくださっていたんですね。
最後に、ご本席様四国巡教についてこの記事で紹介した略地図を貼り付けておきますね。
繁藤大教会って、四国の“へそ”にある、自然豊かな陽気ぐらし道場ですよ🤗
今週もお付き合いくださり大変ありがとうございました。
また来週👋