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常識。非常識!
以前、といっても30歳代のころ。
当時私は青年会活動に没頭していました。
今はもうなくなったのかな?
毎年青年会本部では「直属分会幹部錬成会(略して、直幹練ちょっかんれん)」という行事があった。私もよく参加していました。
この行事のプログラムは毎回アレンジされるけど、活発な活動を展開する分会の活動発表はマストでした。
ある年の直幹練。
H世分会K委員長さんが活動発表を行いました。
本部総会への動員についての内容でした。
動員数をK委員長さんの一存で400名と定め、あとはみんな宜しくお願い致しますっ!と、ご本人は修養科へと旅立ったんです。
分会(教会)所在地も部属分会所在地も、おぢばからはずいぶん遠隔地。けっして大所帯とは言い難い部属数。その条件で400名動員は、普通では考えられない大きな数字。
それを、人望厚く、まっすぐな信仰の持ち主であるK委員長さんに心を寄せるリーダー層の委員さん方は一手一つに動員に励み、その大きな数字を達成してしまうんです。
スゲーーー!
そして、K委員長さんの分会活動発表は、このように締めくくられました。
「これからも心一つになって、
おやさま、おやさま。
非常識、非常識。
これで進んでまいりますっ」と。
400名動員という“非常識”な心定めを完遂した、とても強烈なインパクトのあるお話しでした。
みかぐらうたに、
三下り目 七ツ
なんでもこれからひとすぢに
かみ(神)にもたれてゆきまする
九下り目 二ツ
ふじゆなきよにしてやらう
かみのこヽろ(神の心)にもたれつけ
とありますね。
みかぐらうたには手振りがあります。
歌の理に合わせて踊ります。その踊りは、親神様のお働きをいただこうと頭を垂れ、御守護を押しいただくべく、何度も合掌する。
どこまでも親神様への崇拝の姿が基本となる。
これがお手振りの“常識”。
しかし、上記二つのお歌の手振りだけは、例外なんですよね。
「神にもたれて」
と左回りに後方へ反転する。
「神の心にもたれつけ」
と上体を、神様に対して上方へと顔を向け、仰け反り後退する。
お手振りの基本は、右回り、そして、首を垂れる感覚。
それが“常識”。
だけど、上記二つの例外は、いわば“非常識”。
親神様の思し召しを探りつつ、自らを勇ませ、愚直に歩む信仰者の姿。
特に、おやさま時代、お屋敷周辺で勤められた先人、おやさまの言葉を信じ切り布教に明け暮れた先人、おたすけに東奔西走する先人の背中は、時に世間様には“非常識”に映ったかもしれない。
だけど、鮮やかな親神様のお働きに浴し、不治と諦められた病人が健やかに復し、長年の懸案問題が解決し、そんな不思議な数々の御守護を頂戴された。そして180年以上の長きに亘り、この道が今に続いている。
常識とは、人間思案かなぁ
非常識とは、神一条の精神でしょか
天理教の教えは、人の道に反したり、背いたり、非常識なことを推奨するような、そんな信仰では決してない。
一人ひとりの教理理解と、自ら身に行ない、心に悟って得心した信仰心に拠る。
しかし、おやさまがお教えくだされたみかぐらうたにつけられた手振りから思案するならば、自らの経験と知識で考えたベクトルは、親神様からご覧になれば“怖き危なき道”もあるのかもしれませんね。
月日にハたん/\みへるみちすぢに
こわきあふなきみちがあるので (7-7)
にんけんのわが子をもうもをなぢ事
こわきあふなきみちをあんぢる (7-9)
月日よりこわきあふなきみちすじを
あんぢていれどめへ/\しらすに(8-63)
いま私たち天理教信仰者、とりわけ、よふぼくは、来る2026年1月26日に迎える「おやさま140年祭」を一里塚として、三年千日の年祭活動を懸命に歩んでいますよね、懸命に。
その活動も、折り返しを迎える今日、表統領へのインタビューが天理時報に掲載されました。
読まれた方も多いと思います。
教祖が私たちにご期待くださることがあるとすれば、それはどういうことなのか。このたびの自分の三年千日の歩み方は、教祖の目からご覧になって、どう映っているのだろうか。ご期待に応えられているのだろうか、届いているだろうか、ということを、いつも心の中で反芻しながら通らせていただくことが大切だと思います。
ふむふむ、これ大切!
いつも、おやさまを心に。🔴
おやさまと共に。🔴
ただし、私は基本的に教祖の思召に届いているということはないと考えています。それは年祭の元一日である明治20年陰暦正月二十六日のときもそうでした。先人たちは決死の覚悟でおつとめを勤め、これで教祖はお元気になってくださるに違いないと考えたと思いますが、お見せいただいたのは、教祖が現身をかくされるという想像もしない結果でした。
私たちがどれだけ思っても、どこまでも届いていない、ということを前提に思案することが、ひながたを辿る姿勢として大切だと思うのです。ですから、届いていないというのは、何がどう届いていないのかということを、教祖のひながたを頼りに、教祖ならどうお考えになって私たちをご覧くださっているのかと想像することも含めて、いろいろな視点で自分の届かなさを常に振り返ることが必要だと思っています。
ん?んん?
「基本的におやさまの思召に届いているということはない」とな?
「どれだけ思っても、どこまでも届いていない、ということを前提に思案する」とな??
懸命に歩む私たちのやる気を削ぐような、怖き危なき発言ですね〜、と少なくとも私はそのように感じました。
“非常識”だっ!
もうインタビュー記事の続きを読む気力がなくなったことを覚えています。
このインタビューを読んで、
「そっか、届いてないんだ、もっとチカラを入れて励もう」て奮起した方はいらっしゃったでしょうか。ファーストインプレッションでそのように感じ取られた方、もしよろしければどんな印象を受けられたかそっとお教えくださいネ。
やはり目標設定は、このくらいならいけるだろうという安易なところよりも、自分に少し負荷をかけた目標のほうがよいと思います。
教祖年祭への三年千日は、ご守護を頂ける特別な旬です。ですが、ご守護を頂くためには、普段よりも負荷をかけた心定めをして頑張ることが求められます。普段では腰の上がらないような、しんどいことを求めて苦労して取り組むから、勇み心や元気が湧き上がってくるし、教祖もすぐにお受け取りくださるのだと思います。
名言、いや、失礼ながら迷言だわ、、、。
いま私は“非常識”について書いている。
表統領へのインタビュー記事を読んで“非常識だ!”と感じたのは、私自身の“常識”感覚、つまり、人間思案。
だとすると、いつまでも「このインタビューは、けしからんッ」と息巻くよりも、謙虚に受け取る必要があるのかもしれませんね、“非常識”に。
自分自身の信仰信念、信仰の糧、信仰姿勢などを学び身につけることを先人の道すがらに求めたいと思うなら、それは、愚直さ、素直さ、真っ直ぐな心、そんな“非常識”さなのかもしれませんね、、、。