能登の記② -ひのきしんに参加して-
2024年元日16時10分、能登半島を激震が襲った。気象庁発表のマグニチュードは7.6。最大震度は石川県輪島市門前町走出と同県羽咋郡志賀町香能で観測された震度7。
その時刻、元旦祭を終え、参拝の方々の往来もひと段落し、年賀状を見ながらまったりと過ごしつつ、うとうとしていた。
と、子供たちがなにやらワーワー騒いでいる声で浅い眠りから覚めた。
「緊急地震速報」「緊急避難情報」「大津波警報」と次々とテレビからの音声。
各局とも、お正月の娯楽番組を打ち消すようなけたたましくいびつな警告音と速報のテロップ。
「能登半島で大地震!!!」と子供達が私のところにも伝えにきた。
「こ、これはっ‼️」
ただ事ではないことが起こっている、とすぐに認識し、私はテレビに張り付いた。
が、この時点ではまだ、“テレビの映像”として入ってきたニュース、という感覚だったかも知れない。
しかし、その日の夜、金沢市にある教会の友人教会長から「部内が全壊した」との知らせに触れるや、能登半島での突然の発災が身近なものとして迫ってきた。
富山県内の2軒あるよふぼくさん宅と電話が繋がらない。
「これは大変なことになった、、、」
それから、何ができるが考えた。
不思議と動揺はなかった。
なぜ動揺しなかったか。それはこちらの記事の後半に書いてありますよ。
👇👇👇
『能登に祈りを届ける』これしかない。
さて、2月の末。
この時点では、災害救援ひのきしん隊本部隊はじめ、道の教友たちが、様々な避難所や被災地において、発災直後から継続的な支援活動を展開していた。
私の住まう四国地区の災害救援ひのきしん隊への出動要請はまだない。
そんな時、大教会長さんから、「私たちも直属隊有志で支援活動をしよう」との声がけで、『無事を祈る』支援から、具体的に駆けつける支援活動に動くことが決まった。
思えば、東日本大震災の時も、当時の大教会長さんから、「ひのきしんに行こう」とお声がけいただき、直属隊3次隊に参加し石巻にて支援活動ひのきしんをした。
さて、能登への日程は4/3.4.5の2泊3日。
大教会長さんと他4名、計5名での出動だ。
4/2夜中におぢば着、泊。
4/3金沢の友人教会長がおぢばの御用を終え、帰会する日がたまたまこの日だったので、彼の車に同乗を頼んで午前5時半におぢば出発。
午前10時に金沢に着くやレンタカーに乗り換えて、富山県へ。そして、信者さん宅2軒を訪問し、元気なお顔に再会できてヒト安心。お見舞いを手渡してまたすぐに金沢に戻る。
午後3時半に大教会便が金沢に到着し、私も合流して、ガソリン満タン、食材調達をして、一路、珠洲市へ向けて出発。
「のと里山海道」。千里浜を眺めながら西山PAまで走行し、そこで休憩。その先の道路が地震の影響で悪路だということを聞いていたので慎重に進む。
気の知れた仲間なので、車中ではいつも通りにぺちゃくちゃ話しが弾んでいたが、悪路に差し掛かるや車中はシーーンとなった。
日が暮れた。街灯は点いていない。ヘッドライトに照らされる路面は、ひび割れ、陥没、隆起でまさに悪路。いつのまにか対向車線が無くなっている。
「無事に珠洲まで辿り着けるんだろうか、、」
と不安になる。
と、深夜巡回のパトカーが走っていた。そして、運転をしていたメンバーがうまい具合にパトカーの後ろに張り付き、扈従するようにあとを走った。
なんとか珠洲市内に入った。
目指す「珠洲ひのきしんセンター」(寶立分教会)は海に近い。車のナビ通りに進むが、道がない。迷い込んでしまった。引き返す。あとでわかったことだが、迷い込んだ地域は津波と液状化と土地の隆起で最も被害の大きかった宝立地区だった。
迂回をしながら目指す教会に近づく。
明かりの点いた2階建ての建物が見えた。
「あそこだ!」
午後8時半過ぎ、やっっと目的地に到着。
なにやら食堂と思しき部屋が騒がしい。
酒盛りしてるやん!
「こんばんはー、ただいま到着しましたー」
すると中から見覚えのある面々。
「あっっ!!!いっけんさんだぁー!」
と。A大教会長さん、Y大教会長さんとそのご部内のM会長さん。みんな仲良しだ。
おいおい、ここは百母屋か!
我々は、甚大な被害を被った被災地に来たもんだから心痛な面持ちのまま2階の神殿で参拝。
荷物を解く暇も無く食堂へいざなわれる。鍋がグツグツ出来上がってる。
こんな最高なお出迎えがあるとは!
ひと通り挨拶し、改めて生活面の説明、といってもトイレの使用法のみ。
なんと、玄関前にベタ付けされてた軽トラキャンピングカーはトイレカーだったのである。
私は安堵した。なぜ安堵したか。それは、四国を出発前に、「これをお使いください」と大量の携帯トイレを預かっていたが、それを積み忘れていたのだ。
水も電気もない発災直後、初期のひのきしん者は、自分の排泄物を持ち帰っていたことを聞いていたので、携帯トイレは必需品と覚悟していた。なのに、自分はそれを積み忘れた。
実は珠洲市までの道中、そのことが常に念頭にあり、いつ言い出そうか、、、と心配していたのである。
食堂で、寶立分教会長ご夫妻にご挨拶。
すると、教会の娘さんが「〇〇〇〇さん、私は同級生ですぅー」と。〇〇〇〇さんとは、私のお預かりする教会のご部内の布教所の娘さん。「天高2部の同級生で仲良しなんですぅー」と。え!てことは、、私は自分の長男の名前を出した。「そのオヤジです」て。
えええーーー!てなるよね。
その娘さんのトシゴの弟も2部生。なんと寮の担当幹事さんのオヤジさんも我々のグループの一員だと知るや、えええーーー!て。
天理教あるあるw
またこの日に偶然、発災直後に新潟から十数時間かけて駆けつけて、センター立ち上げに尽力した教会長さんもいらっしゃってて、いろいろと壮絶なお話しを伺うことができた。涙が出た。よくぞ最初に駆けつけてくださった!
長時間移動の疲れと緊張感もあってか、わずかの時間でお酒に酔ってしまい、そして、就寝。
通されたお部屋は綺麗な和室。支援物資のお布団をお借りした。
もちろん寝袋を持参していたが、お布団を使わせていただいた。まさか布団に寝られるとは!と感動しながらも、秒で寝落ちしていた。
4/4朝づとめは午前7時。いつもよりもたっぷりと寝て、気持ちよく目覚め、、、いや、ここはあの大地震が起こったまさに被災地。
今日一日の無事をおつとめに込める。
「朝食どうぞーー」と奥さんの明るい声。
「え!?ご用意してくださったんだ!」
温かいお味噌汁と白いご飯。梅干しにふりかけ。
朝昼夕の三食共にインスタント、と予定していたが、結果的にインスタント食品は昼食のみだった。
さぁ、現場に向かおう。
案内は、寶立分教会長さんの息子さん。まずは北乃洲分教会へ向かい、参拝後に矢田代表にご挨拶。矢田さんはFacebookにてセンターの情報を発信しているので、またご確認くださいませ。
👇これです。
私たちが担当したひのきしん場所は、珠洲分教会の近くだった。珠洲分教会は、寶立や北乃洲の上級教会。神殿の大屋根が、そのままの形で地面にグッシャリと倒壊するという、痛ましい被害だ。なんとか親神様の御目標様だけは瓦礫の中から取り出せたそうだ。神殿後方から殿内に潜り込んだ形跡が見られた。
言葉を失う。。。(写真は撮りましたが、掲載は控えますね🙏)
さて、担当した倒壊家屋。
これです。
聞くと、二階建て建物だったそうだ。陶芸家さんのお宅で、粘土と桐箪笥と設計図を取り出したいので、センターに申し込んできたそうだ。普通なら、重機械で一気に解体されるところを、天理教の方々に頼んだら手作業で解体してくれる、という情報を聞きつけて申し込んできたそうだ。
朝から取り掛かって、午後2時半ごろには瓦を全部下ろした。家主さん、喜んでくださるよねーと、そんな笑顔であろうことを励みにひのきしんをした。
瓦礫廃棄場所への搬入は午後3時までなので、少し早いが作業を終え、自衛隊により飯田小学校に設営された仮設風呂へ。
東日本大震災でのひのきしんとして赴いた石巻市での自衛隊風呂以来の利用だ。
こんな案内があった。
お湯の温度は44℃。熱くてあったかくて気持ちの良いお風呂。
石巻市で利用した自衛隊風呂から進化していた点が一つ。なんと、シャワー設備がある!これはスゴイ!
ひのきしんの汗と埃をキレイに洗い流し、熱々の湯船で身体をほぐす。
実は、飯田小学校は現在も避難所として開放されていた。そして、校舎玄関にはトイレトラックが常駐していた。荷台のパッケージには、私の出身自治体の文字が。胸が熱くなりました。
入浴後、夕づとめまで時間があったので、昨晩、センターに到着前に迷い込んだ地域を散策した。津波の激しかった宝立地区。
地震当日の姿のままの倒壊家屋、飛び出たマンホール。人の気配がない、音がない、色がない、風の音すらない。
もう胸が締め付けられました。長居はせずにその地域をあとにして、教会へと戻る。
と、大教会長さんが次回の支援活動について相談を始めた。そして、5月は炊き出し活動をしよう、と話がまとまった。
寶立分教会長さんに伺うと、テントとプロパンガスはお借りできることになった。
夜は会長夫人さんの手料理を頂いた。美味しかった。2日目の晩は、私はアルコールを飲まずに水を飲んだ。身体が水分を欲していた。
大水は怖いが、水がないと生きられない。
コップの水を眺めながら、寶立分教会長さんのいろんな話に耳を傾けて、「また来よう」と思いを新たにした。
翌朝、美味しい味噌汁と白いご飯をいただき、荷物をまとめて寶立分教会を出発するべく荷造りしていたら、ワゴン車と、ユニックにユンボを載せた関東ナンバーのトラックが到着した。
私に、珠洲ひのきしんセンターのことを教えてくださったG先輩だっ!
挨拶に駆けつけて、思わず握手した。「先輩、来ました!ここを教えてくださってありがとうございましたっ!」
「おお!ここで会えて嬉しいよ!」と笑顔なるも、すぐに神殿にて参拝し、作業場所を確認して出動準備をしていた。
すごい先輩だ。
センターの皆さんとG先輩に見送られ出発。
帰途は、国道249号線を走った。
穴水と七尾。ここも倒壊家屋が目立つ。
「復興の途はまだまだ続くなぁ。一日も早い安らぎを。」そう願うばかりだ。
センターで教えてもらった通りに、徳田大津インターからのと里山海道に入り、あっという間に金沢まで走った。
道々に、復興支援へのお礼看板を見つけた。
再び胸が熱くなった。
金沢でお昼時間になる計算通りに、私は勝手に魚料理屋を予約して、美味しい刺身定食をみんなで食べた。
石川は美味しい!
次回も、復興地支援、食の支援ができればなぁ、などと呑気なことを思いながら能登半島を離れた。
そして、九州から参加していた仲間メンバーを大阪南港に送り、一路、四国へ。
夜、無事に帰り着いた。
🔹終わりに
次から次へと、入れ替わり立ち替わり、いろんなグループが支援のひのきしんに来ている。そんな切れ目のないサイクルの中に我々の大教会隊も加わることができた。
たった一日の参加だったが、“その地”を訪れ、ひのきしんができた。
私たち信仰者は、「祈りを届ける」という尊い行いができる。
また、実際に「支援を届ける」ことも大切な行動。
阪神淡路大震災、東日本大震災、水害など、多くの復興地に赴き、微力ながら支援活動ひのきしんに参加したが、結果的に、駆けつけた我々が勇気と元気をもらった、という実感は、珠洲市でも同じだった。
それは、明日に希望を持って、今日一日を陽気に通る、という姿に接するから。信仰のあるなしに関わらず、みんな前を向いているからだ。
計らずも被災なさった方々には衷心よりお見舞い申し上げるとともに、しっかりと寄り添うことの大切さを改めて感じた。
そして、心痛な面持ちで寶立分教会に到着した私たちを、ニコニコ破顔で迎えてくださった寶立分教会の会長さん奥さんには感謝しかありません。
元日の発災以来、大変なご苦労の道中を過ごされてきたことは容易に察することはできるが、まさに本物の信仰者の逞しさ、強さ、陽気に触れることができた。
珠洲市の夜明けと日暮に、いつもと変わらない空に響くおつとめの音が、我々の高き誇りなんだと心を澄ました。
また来よう。
今週も最後までお読みいただきありがとうございました😊
また来週👋