見出し画像

-メモ-諭達第四号の三つのお言葉

おやさま140年祭に向かう私たちの歩むべき指針と心の置き所をお諭しくださった「諭達第四号」。
日々拝読しながら、ふと感じたり、ピン!と閃いたり、大切だなぁと改めて思ったりと、その時その時での感じ方は大切にしておきたいなぁと思うんですね。
今回は、そんな“いろんな読み取り方”で私が感じたことを記事にしたいなと思います。

今回取り上げるのは、諭達に引用された三つのお言葉です。

水を飲めば水の味がする
節から芽が出る
人をたすけて我が身たすかる

まず一つ一つ、引用された箇所を確認しますね。

1️⃣水を飲めば水の味がする

こかんが、お母さん、もう、お米はありません。と、言うと、教祖は、
「世界には、枕もとに食物を山ほど積んでも、食べるに食べられず、水も喉を越さんと言うて苦しんでいる人もある。そのことを思えば、わしらは結構や、水を飲めば水の味がする。親神様が結構にお与え下されてある。」と、諭され、又、
「どれ位つまらんとても、つまらんと言うな。乞食はさゝぬ。」
と、励まされたので、子達も、崩折れ勝ちな心を振り起して、教祖に従うた。
このように生計が苦しい時でも、その中から、食をさき着物を脱いで、困って居る者に与えられるのが常であった。漸くの思いで手に入れた五合の米を、偶々門口に立って食を乞う者に、何の惜気もなく与えられたのも、寒さにふるえて居る者を見て、身につけて居る絆纏を脱いで与えられたのも、この頃である。

稿本天理教教祖伝 第三章 みちすがら


2️⃣節から芽が出る

教祖は、八十の坂を越えてから、警察署や監獄署へ度々御苦労下された。しかも、罪科あっての事ではない。教祖が、世界たすけの道をお説きになる、ふしぎなたすけが挙がる、と言うては、いよ/\世間の反対が激しくなり、ます/\取締りが厳しくなった。しかし、それにも拘らず、親神の思召は一段と弘まって、河内、大阪、山城や、遠く津々浦々に及んだ。この勢は、又一層、世間の嫉み猜みを招き、ふしぎなたすけの続出する毎に、反対攻撃の声は、各地から奈良警察署へと集まった。
そして、その鉾先が悉くお屋敷へ、教祖へと向けられた。
しかし、教祖は、親神の思召を理解出来ぬ人間心を、残念と誌して激しいもどかしさを述べられながらも、頑是ない子供の仕草として、些かも気に障えられる事なく、これ皆、高山から世界に往還の道をつけるにをいがけである、反対する者も拘引に来る者も、悉く可愛い我が子供である、と思召されて、いそ/\と出掛けられた。教祖は常に、「ふしから芽が出る。」と、仰せられた。

稿本天理教教祖伝 第七章 ふしから芽が出る


3️⃣人をたすけて我が身たすかる

わかるよふむねのうちよりしやんせよ
人たすけたらわがみたすかる

おふでさき 三号47

 加見兵四郎は、明治十八年九月一日、当時十三才の長女きみが、突然、両眼がほとんど見えなくなり、同年十月七日から、兵四郎もまた目のお手入れを頂き、目が見えぬようになったので、十一月一日、妻つねに申し付けて、おぢばへ代参させた。教祖は、
「この目はなあ、難しい目ではあらせん。神様は一寸指で押さえているのやで。そのなあ、押さえているというのは、ためしと手引きにかかりているのや程に。」
と、仰せになり、つづいて、
「人言伝ては、人言伝て。人頼みは、人頼み。人の口一人くぐれば一人、二人くぐれば二人。人の口くぐるだけ、話が狂う。狂うた話した分にゃ、世界で誤ちが出来るで。誤ち出来た分にゃ、どうもならん。よって、本人が出て来るがよい。その上、しっかり諭してやるで。」
と、お諭し下された。つねが家にもどって、この話を伝えると、兵四郎は、「成る程、その通りや。」と、心から感激して、三日朝、笠間から四里の道を、片手には杖、片手は妻に引いてもらって、お屋敷へ帰って来た。教祖は、先ず、
「さあさあ」
と、仰せあり、それから約二時間にわたって、元初まりのお話をお聞かせ下された。その時の教祖のお声の大きさは、あたりの建具がピリピリと震動した程であった。そのお言葉がすむや否や、ハッと思うと、目はいつとなく、何んとなしに鮮やかとなり、帰宅してみると、長女きみの目も鮮やかに御守護頂いていた。
 しかし、その後、兵四郎の目は、毎朝八時頃までというものは、ボーッとして遠目は少しもきかず、どう思案しても御利やくない故に、翌明治十九年正月に、又、おぢばへ帰って、お伺い願うと、
「それはなあ、手引きがすんで、ためしがすまんのやで。ためしというは、人救けたら我が身救かる、という。我が身思うてはならん。どうでも、人を救けたい、救かってもらいたい、という一心に取り直すなら、身上は鮮やかやで。」
とのお諭しを頂いた。よって、その後、熱心におたすけに奔走するうちに、自分の身上も、すっきりお救け頂いた。

天理教教祖伝逸話篇 167 人救けたら

これら引用されたお言葉、一つひとつはもうじゅうぶんに聴き親しんだ文言なんですが、拝読してて最近になって感じたことは、「あ、人を丹精させていただく順番というか段階というか。お相手の方に合わせた導き方があるんだな。」と感じたんですね。

人の信仰度合いを計ること自体、高慢で高飛車な物言いになってしまいがちですが、先輩よふぼくとして、教会長として、道を求める方々に対する丹精の姿勢は、「相手に合わせる」ことが大事なんじゃないかなと、改めて気づきました。この道に入信まもない方に、いきなり「人だすけをすると、結果、あなた自身がたすかることになるんですよ」と伝えたところで、「え?なんで?」てなるのがオチですもんね。

「水を飲めば、ほら、水の味がしますよね。」と、体感することのできる親神様の御守護を味わっていただく。
「このたびの節から素敵な芽吹きを頂こうね」と、偶然立ちはだかった節ではなくて、そこには神様の思いが込められているんだよ、前を向いて進みましょうよ、と親神様のお導きを噛みしめていただく。
「ほら、あなたも、人様が喜ぶような言動を心がけて、人様のたすかりの一助にならせていただこうよ。きっと、あなた自身の運命も好転するはずだよ。」と、よふぼくになったばかりの人に、親神様の思し召しである人だすけの道を進んでいただく。

何事も一足飛びな丹精はなくて、もちろん、一足飛びな成人もない、各人に応じて、掛ける言葉や導き方があるんだよ、と、ご諭達の三つのお言葉を通して示してくださっているのかな、と思えてきました。

皆さんの諭達から得られる思案は、どんな箇所からどんな感じ方をなさっておられるか、またお聞かせ下さいね。

あ。
今週の記事は、思案が浅くて薄い、、、。
いいの、いいの、ふと思ったことだから。
メモとして。

いつもありがとうございます。
また来週👋



🔷今月は、諭達発布から丸2年です。最後になりましたが、「諭達第四号」全文を改めて掲載いたしますね。
※文中「教祖」は、親しみを込めて「おやさま」とお読み致します

諭 達  第 四 号 

 立教百八十九年、教祖百四十年祭を迎えるにあたり、思うところを述べて、全教の心を一つにしたい。
 親神様は、旬刻限の到来とともに、教祖をやしろとして表にお現れになり、世界一れつをたすけるため、陽気ぐらしへのたすけ一条の道を創められた。
 以来、教祖は、月日のやしろとして、親神様の思召をお説き下され、つとめを教えられるとともに、御自ら、ひながたの道をお示し下された。
 そして、明治二十年陰暦正月二十六日、子供の成人を急き込まれ、定命を縮めて現身をかくされたが、今も存命のまま元のやしきに留まり、世界たすけの先頭に立ってお働き下され、私たちをお導き下されている。
 この教祖の親心にお応えすべく、よふぼく一人ひとりが教祖の道具衆としての自覚を高め、仕切って成人の歩みを進めることが、教祖年祭を勤める意義である。
 おさしづに、
  ひながたの道を通らねばひながた要らん。(略)ひながたの道より道が無いで。
(明治二十ニ年十一月七日)
と仰せられている。教祖年祭への三年千日は、ひながたを目標に教えを実践し、たすけ一条の歩みを活発に推し進めるときである。 
 教祖はひながたの道を、まず貧に落ちきるところから始められ、どのような困難な道中も、親神様のお心のままに、心明るくお通り下された。
 あるときは、
 「水を飲めば水の味がする」
と、どんな中でも親神様の大いなる御守護に感謝して通ることを教えられ、また、あるときは、
 「ふしから芽が出る」
と、成ってくる姿はすべて人々を成人へとお導き下さる親神様のお計らいであると諭され、周囲の人々を励まされた。
 さらには、
「人救けたら我が身救かる」
と、ひたすらたすけ一条に歩む中に、いつしか心は澄すみ、明るく陽気に救われていくとお教え下された。ぢばを慕い親神様の思召に添いきる中に、必ず成程という日をお見せ頂ける。この五十年にわたるひながたこそ、陽気ぐらしへと進むただ一条の道である。
 今日、世の中には、他者への思いやりを欠いた自己主張や刹那的行動があふれ、人々は己が力を過信し、我が身思案に流れ、心の闇路をさまよっている。
 親神様は、こうした人間の心得違いを知らせようと、身上や事情にしるしを見せられる。頻繁する自然災害や疫病の世界的流行も、すべては私たちに心の入れ替えを促される子供可愛い親心の現れであり、てびきである。一れつ兄弟姉妹の自覚に基づき、人々が互いに立て合いたすけ合う、陽気ぐらしの生き方が今こそ求められている。
 よふぼくは、進んで教会に足を運び、日頃からひのきしんに励み、家庭や職場など身近なところから、にをいがけを心掛けよう。身上、事情で悩む人々には、親身に寄り添い、おつとめで治りを願い、病む者にはおさづけを取り次ぎ、真にたすかる道があることを伝えよう。親神様は真実の心を受け取って、自由の御守護をお見せ下される。
 教祖お一人から始まったこの道を、先人はひながたを心の頼りとして懸命に通り、私たちへとつないで下さった。その信仰を受け継ぎ、親から子、子から孫へと引き継いでいく一歩一歩の積み重ねが、末代へと続く道となるのである。
 この道にお引き寄せ頂く道の子一同が、教祖の年祭を成人の節目として、世界たすけの歩みを一手一つに力強く推し進め、御存命でお働き下さる教祖にご安心頂き、お喜び頂きたい。

立教百八十五年十月二十六日

真 柱  中 山 善 司 

いいなと思ったら応援しよう!