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講話と感話と講演

昔、父親から、
「お道の講話はな、親神様の御守護とおやさまの御ひながたをお話しをさせてもらいなさい。それが講話だよ、と(当時の)大教会長さんが仰ってた。」と聞いた。

上記の父親との会話はどんな場面だったかというと、青年会の御用で出向の予定があり、出向先でのプログラムの中に私の“講話”があったので、「何を話そうか、、、」と頭を抱えていた私の姿を見て言ってくれた父親の話しだ。

父親は私を助けるアドバイスのつもりで言ったに違いないが、「青年会の講話で、親神様とおやさまの話しかぁ、、、」と余計に頭を抱えることになったのは言うまでもない(笑)。

「親神様のお働きと、おやさまのお導きがあってこその青年会活動やなぁ」と思い至り、出向当日の講話は、参加してくださった一般の会員さん方にとっては決して面白い話ではなくて、お堅い話しになったが、リーダー層の方々には多少なりとも私の意とする事柄が伝わった手応えが得られた。

お道の講話は、
親神様の御守護と
おやさまの御ひながたを伝える

このことは、今でも私の中にずっしりとありますし、講話の内容を考える上でも芯に据えている心構えです。
が、だからなおさら講話はムズイ!

去年、大教会の祭典講話の役目をいただいたとき、初めての御用であり、聞き手は、前列のほうからお歴々が並ぶし、参拝の方々も教会長さんや布教所長さんなどがいらっしゃるし、話し手の私は若輩者だし、てことで話の冒頭に前述の父親から聞いた話をサラッと紹介した上で、「ですが、若造で経験も浅いので、今日は講話ではなく感話です」と開き直って話を進めた。

講話を終えて、「せっかく月に一度、大教会月次祭に詣って、あの講話では申し訳なかったなぁ」と当然後悔した。

講話とはどうあるべきか?

いやいや、親神様の御守護とおやさまの御ひながたでしょ、これは揺るぎない。
が、ムズイ。

教会本部月次祭での本部員先生方の祭典講話は、おおむね、前半は、親神様の御守護とおやさまの御ひながたに触れられ、後半は、それらに基づく話し手自身の経験談と思案話に至る。とてもシンプルで聴きやすいし分かりやすい。
ザ・祭典講話だ。
私にとっては26日の祭典講話は、勉強の場でもある。

さて、以前のことだが、祭典における講話の準備の仕方、話し方、について貴重な講座があった。
講師は本部員でありK大教会長であるF先生。

F先生曰く。
「月次祭の充実は、祭典講話の充実も欠かせない要素である」とのこと。
このことを前提に話が進められた。
50分の講義でした。
要点を箇条書きに列記してみると以下の点です。

・“教話”が大切
・30代までは完全原稿をまず作りなさい
・おつとめのわからない方にでも月次祭に参拝すればスカッとする講話を
・教会長向けの話ではダメだ
・ウチの大教会でも長い時間をかけてお話をする方々のスキルアップに努めた
・信者は月次祭に繋がらなければ成人できない
・教話で人を繋ぐ
・祭典講話の充実は、月次祭の充実に繋がる
・教話によって、病人にも勇んでもらう
・教話は90%の分かりやすさと10%の驚き(工夫、苦心、表現)
・文章とお話し。文章では同じ事を繰り返すとつまらない文章となるが、お話では大切なことは繰り返す。完全原稿を作ることによって鍛錬する。

おたすけのお話では
・判断力、神一条の精神。行動力。旬を外さない。
・教会長の努力。説得力。
・かしもの、かりものの理のお話を工夫して伝える
・教理を知っているだけではダメ、実行実践

話し手の徳によって伝わるor伝わらない
人望、徳分
話し手の徳積み、理作り、伏せ込み
聞き手(信者さんなど)にファンになってもらえるよう努力する

加えて、数カ所のおさしづを引用なされて“伝える”ことの要点をお話しくださいました。
まだまだありますが、ここで書くことのできる事柄だけを挙げてみました。

この時のメモをまとめて、K大教会の友人に見せると、
「ウチの講師陣もだいたい似たようなことを日々言われているし、鍛錬しているけど、なかなかね、、、。」
とのことだった。彼はけっこう上手な話し手だと私は認識しているが、当の本人に言わせると、講話はやはり難問らしい。


近年出版された「生命(いのち)の進化〜令和編〜」がもたらした“元の理”の理解とアプローチは画期的で、私も数度読み込んだ。
そして、祭典講話で“元の理”についてのお話しが出来るようになりたいなぁと思うようになり、何度か挑戦してみたがことごとくスベッた(笑)。
F先生の仰る、『教理を知っているだけではダメ』との言葉が身に沁みた。
が、なんとか自分の言葉で“元の理”についての講話を完成させたいなぁという目標は捨てていない。

教内には、講話が達者な先生方がすごく多い。
聴いててホントに勉強になるし、時に羨望する。
反対に、「どうも俺には合わないなぁ」と、全く受け容れられない先生方もいる。

原因は何か。
1番大きな原因は、話のネタが古い。
つまり、いつまで経っても以前お聞きした話しを繰り返しているだけ。そのくせ、なぜか教内ではいまだに声のかかる先生方だ。
ホント謎。
あと、話し言葉に品がない先生。
聞き苦しい。
これは致命的だわ。

とある地方から関西の教会に嫁がれた人気話し手がいる。よせばいいのにヘンテコリンな関西弁で話す。尚且つ、言葉遣いが荒っぽくて、且つネタが古い。
この先生が教区行事に来られて登壇した。
もうね、聴いてられない。辟易したわ。
私は退席しましたよ。
そして何年か経って、再びこの先生のお話しを聞く機会が訪れた。
以前と同んなじネタ。同んなじ話し方。教話ナシ。自分の手柄話しオンリー。
これは、講話ではなくて、感話。
もしお金を払って聞くならば、低レベルな講演。

あ、講演て。
これは、社会的にも一定程度認められた専門家や研究者が行うもの。
そっか。おたすけの専門家、教理の専門家。教義の研究者。
素晴らしい講演ができる先生方て、いらっしゃるね。
でも、何事もひのきしんだから、講話の話し手にはお金は発生しませんよね。
お金によるお礼か。
もうこうなったらまるで、、、いや、よそう。
思いっきり特定の話し手をディスってしまうわ。

よふぼくは“話し医者”。

て誰かが仰ってました。
講話によって、親神様の御守護を伝え、おやさまの御ひながたを伝え、病む方にも悩みを持つ方にも勇んでいただく。

神様のお話しは“耳”から入らなくても“毛穴”から染み込む。

とも誰かが仰ってました。
何度もなんども、親身になって伝える努力をしたいものです。

話し手と聞き手の心が一本の線で繋がった時。
そこにこそ、おたすけの始まりがあるように思います。

「感話」でもなく、「講演」でもなく、親神様・おやさまのお話しをまっすぐに伝えられる「講話」が勤められるように精進したいなぁと、心の底から願う今日この頃です。
が、いまのところ、まだまだ感話状態です💧

AI講話?は?
いうまでもなく、邪道ですね(笑)

ということで今週の記事はここまでです。
いつも拙い記事にお付き合いくださりありがとうございます🙇‍♂️
では。
Adios. Hastaluego!👋

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