信仰は人それぞれ
普段noteを書いている時の大前提は、
「自分自身の主観」ですので、読み手にとっては共感していただけない内容になることもしばしば。
毎週の拙記事テーマについても、たまに旅行記ライクなものやサザエさん(笑)だったりするも、そのほとんどの記事は天理教の教理と教義をベースにし、よふぼく、或いは教会長としての「自分自身の主観」という目線で書いています。
そして、「自分自身の主観」は、我ながらけっこう偏向してて広く等しく共感していただけないだろうね、ということは自覚していますので、いろんな反論に出くわすこともありますが、腹を立てることなく、むしろ「あ!こういった悟り方もあるんだなぁ」と新たな気づきに感謝できたりもします。
Twitter(現𝕏)とnoteのハイブリッド思案によって、私自身、ホントにいろいろと得るものが大きいなぁとしみじみと思うわけです。
これまでで一番大きな新たな気づきは、
「信仰って人それぞれだなぁ」という点です。
特に、「理の親」と「理と情」についての思案はまさに十人十色。いろんな悟り方があって、どれも間違ってなくて、どれも奥が深いんです。
今回は、そんな数々の気づきの中から「理の親」の私自身の悟り方について、またまた炎上したいと思います(笑)。
が、すぐ終わります。
はい、結論を申し上げます。
「どちら様も皆さん間違いじゃなくて、まっすぐな信仰をもっておられる」
ということです。
では、本題に入りますね。
まずは、私が初めて触れた「理の親」という表現について。
父親の現職時代のこと。
私は20歳代前半。
当時、自教会は創立100周年を迎える節目でした。そして、創立記念祭に向かって、みなさんと一手一つになって活動を推し進めていました。
その1年前、創立99周年の春に、繋がるご部内、よふぼく、信者さん方がおぢばに集って決起大会を催したんです。
神殿でおつとめののち詰所に移動し、大広間で式典。
もちろん、当時の大教会長様にご挨拶いただいたのですが、加えて、かつての“理の親”教会長様にもご挨拶いただきました。
(自教会は、かつては、大教会との間に上級教会がありました。)
私は、自教会史を通して、かつては上級教会があったことは知っていましたが、それを、父親が“理の親教会”と表現するのがピンと来ず、ただぼんやりと「あ、そうなんだ」程度の認識でした。
これが私の「理の親」ファーストコンタクト。
その数年後に私は布教の家岡山寮に入るのですが、毎月一回、本部派遣講師としてやってくる先生は、とにかく上級教会に尽くし切る、叩き上げの布教師で、おたすけもおつくしも、何でもかんでもまず上級教会へ!というタイプの先生でした。
そして、上級教会をして“理の親教会”というんです。むしろ、「上級教会とは言うな!理の親教会と呼べッ!」くらいの勢いです。
その先生ご自身の教会の、素晴らしくて凄まじい内容充実や数々の御守護の姿に触れるにつけ、“理の親”教会という信念によって親神様のお働きに浴し、今の姿があるんだなぁと共感して“理の親”教会という表現がストンと胸に治りました。
そして、父親がかつての上級教会を“理の親教会”と呼ぶ信仰姿勢が以前よりもハッキリと理解できました。
この時点で、「理の親」という思案は「理」と「親」がワンセットです。
さらに時は流れて、ご本部で開催していただいた後継者講習会に参加した時のこと。
私は30歳代でした。
2泊3日のプログラムは、講話やねりあい、グループワークなど盛りだくさんの内容で、3日目の最終講講師は真柱様(!)でした。
場所は教祖殿御用場。
そのお話の中で真柱様は「理」の思案について触れられました。
そして、「理」という言葉を理解するには「親神様のお働き」という言葉に置き換えて思案することで理解が進むかもしれない、と仰られました。
このことから、“理の親教会”という表現は、“親神様のお働きによって結ばれた教会の、親子関係”という思案に行き着き、明確に理解できました。
また、所属の教会長さんや大教会長様や真柱様は、親神様のお働きによって結ばれた信仰者の、親子関係だね、と理解できるようになりました。
さて、天理教の信仰を求めるにつけ、“理の親”という言葉はよく聞かれます。明るい陽気な思案の先には、素敵な理の親子関係の姿に出会えますが、そうではなく、理の親の存在によって信仰を捻じ曲げられ、勇むことができず、挙げ句に、信仰に背を向けるようになった方々にも出会いました。
皆さん、理の親との人間関係のもつれが原因です。もちろん、教友同士の関係のもつれもありましたが。
人間関係でのもつれの原因は、根が深いと相談に乗ろうにも迂闊なことが言えません。
そんな場面に何度も出くわしました。
「人間関係か、、、。」
なんだか歯がゆくなりますね。
すると、しだいに「親」の思案になってきました。「理の親」とワンセットで思案し、「理」の思案が真柱様のお話によって理解が深まってきたのに、「親」の思案が足を引っ張るようになってきたのです。
“親”とは。
一般には、産みの親、育ての親、つまり両親や保護者。
あ。
育ての親、という表現には、例えば、スポーツや芸能、文化活動など、その道の師匠や指導者、といったニュアンスがありますが、ここでは両親(保護者)として考えますね。
天理教では、無い人間や無い世界を創造し、慈しみ育ててこられた親神天理王命(おやがみてんりおうのみこと)を「元の神・実の神」と教えられ、親しみを込めて“親神様”と祈念します。
つまり、人類の親なる神だとお聞かせいただきます。
そして、親神様と人間は、親神様自身のお働きである「理」によって結ばれた親子関係であり、親神様こそ「理の親」だという思案にまとまりました。
話がややこしいですか?
この辺りから、「んん??」と首を傾げる方々が出てきますよね。
ま、いっか。
ですから、人類・人間は、親神様の理の子であって、みんな兄弟姉妹。
所属の会長さんも大教会長さんも、みんな兄弟姉妹。人間関係のもつれは、親神様の目から見れば、ちょっとした兄弟喧嘩。
「あなたの通う教会の会長さんが、あなたの信仰の対象では無いんだよ。兄弟姉妹だよ、仲良くね。」と親神様は微笑みながら見てくださっているような気がしますね。
そんなこんなで、「理の親(子)」の思案を私自身の主観によって理解するならば、明るい陽気な信仰生活を送ることができるなぁと考えますよ。
さて、そんな私も父親から教会長の重責を譲り受け、お預かりする教会の会長となった頃、当時90歳のご婦人よふぼくさんに、「これからは会長さんが私の“理の親”ですね、よろしくお願いします」と言われた。
その時、両肩に何か凄く重たい荷物を背負ったような、身が引き締まったような感覚を覚えた。
今でもその時の光景はハッキリと覚えている。
私自身の年齢よりも倍以上の方にそのように言っていただいた重みはなんとも言えない責任感だった。
ある時、教友と話している時に“理の親”の話題になり、私が、
「自分で自分のことを“理の親”だ、などという偉ぶった勘違い教会長さんにはなりたくないねぇ」というと、その教友は、
「いいんだよ。自分のことをそのように言うことによって、自覚と覚悟ができれば素晴らしいやん」との返答。
私は、ガツンと頭を殴られた気がしました。
「俺は理の親だ!」
と、口に出すのは語弊と誤解を生み出すもとには変わりないが、そのように思案することによって、教会長としての自覚と覚悟を涵養する!
「大切な心構えだなぁ!」
と腑に落ちました。
今なら90歳のご婦人よふぼくさんに胸を張って答えられます。
「はいっ!勇んで勤めますっ!こちらこそよろしくお願い致しますっ!」て。
つらつらと記事内容を進めてきましたが、とどのつまり、私の主観による私の言いたいことをまとめると。
いきなり「理の親」の思案や議論になるからメンドーだし炎上してしまうし、カオスなんよね。
そりゃ十人十色の思案の仕方があるんだから。
まず「理」と「親」を別々に思案する必要がありますよね。
その先に「理の親」の思案が成り立ってくるものだと思いますよ。
一足飛びに「理の親」がどうたらこうたら宣うからややこしい。
ややこしやぁーややこしやぁー😁
てゆーか、そもそも、もっと陽気に思案しましょーよ。
てことです。
いえ、いいんですよ。
「私の“理の親”は教会の会長さんですもの」
「あの方は私を天理教の信仰に導いてくれた“理の親”だよ」
「両親が一番初めの“理の親”です」
そりゃそうだ。あなたはきっと素晴らしい信仰生活をお送りなんですね!
私は私の思案の果てに上記のような成人の途上にいるだけです。
この先、変わるかもしれません。
変わるにしても変わらないにしても、いつも心晴れ晴れと、陽気あふれる信仰生活を送りたい、そんな願いのほうがもっと重要ですからね。
このあたりでいいですか?
まだやる?
「理の親」議論て、答えが無くて沼だけど、10人集まれば10通りの素晴らしい信仰体験談が聞けると思います。
あ。
くれぐれも、不満話はナシでお願いします。
毎日を、自らの心を澄ます努力を重ね、誠の行いや陽気な思案を増やせるように心掛けるならば、天理教の未来はきっと明るいはずです。
ところで、、、
「親の理をいただく」
てナニ??
「理立て」
「理が違う」
「親一条」
まだまだありますが、明らかに意味を取り違えた使い方や悟り方は慎まなければなりませんね。
もうやめましょうね。
どちら様も皆さん間違いじゃなくて、まっすぐな信仰をもっておられるんだから。
信仰の悟り方は人それぞれです。
🔶🔶追伸🔶🔶
すみません、なんかエラソーに書いてますね。
再度お伝えしますね。
上記はあくまでもワタシの悟り方です。
議論するのはメンドーですので。
今週も拙い私の思案にお付き合いくださって、心から感謝いたします。
ありがとうございました。
👋