見出し画像

春季大祭参拝を終えて

立教188年春季大祭に無事に参拝できました。
ありがたいことです。

実は、昨年の大祭は、直前に転倒してしまい腰と背中を強打。そして激痛のために帰参を断念したんです。
その時の反省を記事にして投稿しました。

今年の大祭を迎えるにあたって、1年前の反省記事を読み返し、心づくりをしていました。
どんな反省点があったかというと、改めて恥をさらけます。
以下の数点です。

①高慢になっていなかったか?
おやさまお隠れ当日のおさしづと割書を引用して、人様に話したり、記事に書いたり、と様々なところでお伝えしてきた。
そして、自分自身で「どうだい?俺の思案が正しいだろ?」とばかりに高飛車になっていたフシがあった(かも知れない)。

②おやさまお隠れの思案は間違ってなかったか?
これについては、この先ももっと思案を深めなければならない、と反省点があります。

③春季大祭に人を誘ったか?
おぢば往路と復路に、あちこちとお訪ねする予定を詰め込んでいたので、当然のように私1人でのおぢばがえりを予定していました。こんな大切な大祭に、信者さんや家族にもなんとか一緒におぢばへ、と声がけを怠っていました。

④万事、陽気に思案していたか?
これもやはり疑問点があります。
あぁ忙しい。段取りがいっぱいある。おいおい、余計な事は俺に言わんといて、めんどうだ。自分ばかりがバタバタとしていて、周囲に陽気が伝わっていたか?自分勝手の陽気だったのでは?

まだまだ反省点は炙り出そうですが、大きくは上記のようなことがまず思い起こされました。

振り返ると、昨年の秋季大祭を目前にして、インフルエンザA型に罹患して苦しみ、ついに大祭への参拝を断念。そして、今回の大祭前には、転倒して身動きできずに、、、。

八方塞がりに遭遇しても、天への道は開けている。そこに心を繋ぐ。こちらから求めて心を繋ぐ。親神様への心の道をしっかりと繋ぐ。

そして。

⑤おぢばがえりできるのは当たり前じゃない。
地震被害を被った能登地方の方々の中にも、当然「おぢばへ帰りたい。かんろだいを拝したい。おやさまにお会いしたい。」と心に願いつつも、それが叶わない方々は多くいらっしゃる。
災害からの復興情報を発信しながらも、それがカタチだけで終わっていなかったか?復興地に心を寄り添わせていたか?

25日と大祭26日は、もう心が凹んで泣けてきましたが、こうして反省点を言語化するうちに冷静さを取り戻しました。
今はもう元通りに身体が動いています。
大難だったけど、派手に転倒したにも関わらず頭部は打ちつけることはなかったし、小難でお守りいただいたことにまず感謝したいと思います。

最後に、御礼を言わせてくださいね。

⑥Be+兄さんが、Twitter(現𝕏)で仰いました。「今日、奇跡的に参拝できたのは、きっと色んな方々の代参だったのだと思います。そう思えることが嬉しいな😊」と。この“色んな方々”の中に私も含まれていることを知り、感涙です😭。
そして、こう励ましてくれまし😌」と。ハッ!ドキッ!としました。完全に盲点でした。兄さんは、「土佐卯之助先生」の略歴を教えてくれました。

土佐先生の無念、それは大祭を参拝できなかった私に、実感としてひしひしと伝わってきました。
兄さん、いつも、そしてこのたびも、ありがとうございます🙇‍♂️

⑦また、調子に乗って、言わなくてもいいのに、Twitter(現𝕏)に、【悲報】背中と腰を強打、なんてpostしたらたくさんの励ましとご心配をおかけしてしまったこと、大変申し訳ありませんでした。ありがとうございました🙇‍♂️
その投稿に、ある友人からのひと言のリプライ、「良きように十分に身についてくるので、若干かかるけど、十分の理にはかえられないかも。よくわかるので、大丈夫!」との返信が身に沁みました。
  しやハせをよきよふにとてじうぶんに
   みについてくるこれをたのしめ
                            (おふでさき2号42)

やはり、いかなる事象も、親心を悟りとって全て陽気に思案せねばなるまい、と反省を繰り返すこの頃です。

2024.1.28の記事より

反省事項の一つひとつを点検してみます。

①高慢になっていなかったか
今回は、「稿本中山眞之亮傳」を数度読み込んで、おやさまお隠れ当時のことを偲び、親の思いを思案し、また“道の芯”である初代真柱様の道すがらを通して真摯に謙虚に思案することができたように思います。

②おやさまお隠れの思案は間違ってなかったか?
これは①に準じることです。
「26日」についてのおさしづ、『始めた理と治まりた理と、理は一つ』ということを改めて心におさめることができました。
すなわち、以下のおさしづです。

明治二十九年二月二十九日(陰暦正月十六日)夕方
今日昼のおさしづは二十七日に十年祭というさしづの処、五年祭の日記を調べたれば、二十六日は五年祭、二十七日は大祭執行の事に記してありましたから、如何にして勤めまして宜しきや伺

さあ/\尋ね返やさにゃなろまい/\。分かろまい/\。さあ/\これまあ/\、今の処変わらんようと言うて話したる。二十六日々々々々というは今の今には変わろまい。十年祭月々大祭々々、これ一つ聞いて理を治めて居る処、今の処一つの理に集めるというは分からんから、諭したる。月々二十六日として月次祭もあれば大祭もある。一日あいを空けて十年祭と言うてさしづしたる処分かろうまい。二十六日という、月々理と理とをあらためて、事情のあったのは生涯の理。よう聞き分け。又一つ二十六日というは、始めた理と治まりた理と、理は一つである。後先二十七日と又一つの理を諭したるは、二十六日は年々の大祭として、前々変わらんと言うたるは分かろうまい。五年祭の理と、十年祭の理とはなか/\の理。さあ/\二十六日は夜に出て昼に治まりた理。十年祭は後でも先でもだんない/\。いずれも一つの理に治まりて了うのやで。分かりたやろ/\。

おさしづ明治29年2月29日より

③春季大祭に人を誘ったか?
これは達成しました!
嬉しい楽しい団参でしたよ。
しかも、交通渋滞もなくスムーズにおぢばに到着し、かぐらづとめにもバッチリ間に合ったのはこの上ない慶事でした。

④万事、陽気に思案していたか?
これも達成できたと思っています。
昨年後半から、私自身の身の上や身近な周囲に大小さまざまな事柄を見せられることがありましたが、動揺することなく、冷静になって、陽気な思案を心がけることが出来ました。

⑤おぢばがえりできるのは当たり前じゃない。
その通りです。
実は、これはTwitter(現𝕏)に先日投稿しましたが、1/24に転んで尻もちをついたんです。
昨年の転倒と同じ日でした。転けた瞬間、「またか、、、」と思ったのですが、派手に転けたわりには激痛もなく、その後も青タンもなく。
つくづく「守られたんだな」と都合の良い思案でした(笑)

⑥Be+兄さんの励まし
土佐卯之助先生の無念を台に、「陰暦正月二十六日に駆けつけようとして間に合わなかった先人もいたよね。その心境を味わわせていただけたんじゃないかな。それは得難い経験ですよ」と慰めてくださいました。
今回も土佐卯之助先生の来歴を改めて読み返して、先生の無念に思いを馳せることができました。

⑦昨年1/24に転倒して、あまりの激痛に大祭帰参を断念したことを投稿したことは、ホント調子に乗ってたなぁと今では反省しつつも、昨年と同じ日付の今年1/24にまた転倒してしまって、だけど大丈夫です、帰参できます!などとTwitter(現𝕏)に投稿してます。やっぱりまだ調子に乗ってるフシがあるわなぁ。
今後は“かまってちゃん”みたいな投稿は慎みたいと思います。

以上が、昨年の春季大祭に帰参できなかったことの反省を顧みた内容です。


今年の春季大祭は心晴れ晴れとおぢばがえりできました。

『おやさまの年祭を、嬉しい心で迎える』

おやさまの年祭まであと1年。
このお言葉は、どれほど心を陽気に明るくさせてくれるでしょうか。
 昨年(2024年)10月26日の天理教教会本部秋季大祭における真柱様のお言葉の一節。
以下に、引用いたします。

私は、諭達の最後、「この道にお引き寄せ頂く道の子一同が、教祖の年祭を成人の節目として、世界たすけの歩みを一手一つに力強く推し進め、御存命でお働き下さる教祖にご安心頂き、お喜び頂きたい。」と締めくくりました。
 道の子が一手一つになって力強く歩むまでには、もっとたくさんのよふぼくが年祭に心を向け、年祭へ向かっての動きに取り組むように働きかけ、丹精を続けなければ、おやさまに安心してはいただけないと思います。
 三年千日の期間は、動かせていただくことが大切であります。
 一所懸命取り組んで、年祭の当日、おぢばへ帰ってきても来なくても、その日を嬉しい心で迎えることができるように、まだ三分の一残っている三年千日は、勇み心を奮い起こしてお通りくださるようにお願いし、挨拶を終えたいと思います。

立教187年(2024年)秋季大祭

また、本年の年頭にあたっての真柱様のお言葉は以下です。

あけましておめでとうございます。
旧年中はいろいろとおつとめくださってご苦労様でした。
いよいよ、年祭活動の最後の年になったのであります。
2年余り前、立教185年の秋に諭達を出しまして、そしてその次の年から三年千日仕切っての年祭活動と、その期間に入ったのであります。それから早や2年が経ったわけであります。
諭達は、全教が心を揃えて年祭に向かって歩むために出したものであります。
みんな、一手一つとなって、たすけ一条に邁進する姿をもって、おやさまにご安心いただき、お喜びいただきたいという気持ちであったのであります。
一手一つというのは、一つの目的に向かって、それぞれが自分の与えられた立場のつとめをしっかり果たすことによって御守護をいただける姿ということができるかと思います。
一手一つになれば、本当に一手一つになれば、自分一人ではよう出せない力を与えていただくことができるでしょう。また、自分一人では味わうことのできない喜びを味わわせていただくことができると思うのであります。
その一手一つになるためには、まず、一人ひとりがおやさまの思し召しに心を合わせることであります。すなわち、神一条になることであります。
神は心に乗りてはたらく
心さいしっかりすれば神が自由自在に心に乗りてはたらくほどに
と、お言葉があります。
神一条の心に立脚して、自分に与わった立場の役割、また、今やらなければならないことに一生懸命に取り組むことだと思います。
秋の大祭の時にお話ししましたように、現在の私たちの年祭活動に対する取り組み方は、全体として、まだまだおやさまの思し召しとの間に大きな開きがあると思わざるを得ないのであります。
しかし、その開きは、私たちの心の持ち方、それに基づいたつとめ方によってはお縮めすることができると思っているのであります。
三年千日の三年目、締めくくりの年であります。一年しかないともいえるし、まだ三分の一あるという取り方もできます。
思し召しに、少しでもお応えできるように、心定めの達成にしても、それぞれの目標にしても、これに一生懸命に取り組むことによって、頑張ってつとめて、この一年を実りのある年にしていただきたいと、そのようにおつとめいただきたいと願ってやみません。
年の初めにあたって、思うところを述べて、一言ご挨拶にさせていただきます。
本年もどうぞよろしくお願い致します。

立教188年年頭ご挨拶

導きの親、道の芯である真柱様の思いに添い切って、残りの年祭活動も心勇んで前進したいと、改めて心にお誓い申し上げた春季大祭でした。

追伸
私はやっぱり内統領先生のお話が好きだなぁ。
オモテワイヤダww

いいなと思ったら応援しよう!