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続「稿本中山眞之亮傳」3
一派独立請願は第4回目も奏功せず取り下げた。
明治41年3月20日、第5回目の請願。
このたびは首尾よく進んだ。
そして、最後に総理大臣の連署を取り付けるのみとなった時、時の内閣が総辞職。
またしても請願は行き詰まった。
初代真柱様の特命にて精魂込めて立ち働いていた松村吉太郎先生は、
「もう、以後は、一切独立運動を辞退する」
との声に、初代真柱様の督励が泣けてくる。
「お前は生命を捧げる覺悟で従事して居るのではないか。それに、生きて居て辞退するとは何事である。死んだら、やれとは言わぬ。生きて居る間は、どこまでもやれ。内部にどんな事があっても、俺が引き受けるから、安心してやれ。」
松村吉太郎先生は、この一言で甦った。
かくて、明治41年(1908年)11月27日、ついに一派独立を成した。
その頃、初代真柱様の心中には以下のような感慨があったという。
「わしの父は、生前苦勞ばかりの道を通り果てた。わしとしては、いかにもして死んだ父に満足して貰いたいと、一日も忘れた日は無かったが、これで幾分の満足をして頂けるであろう。」
“わしの父”、これすなわち、秀司先生に他ならぬ。父を思う子の気持ちは、つまりは本教の将来を思う若きリーダーの気持ちとなった。
教会本部開設なるも、内務省秘密訓令により苦渋と辛酸をなめ、耐え難きを耐え、何事にも胆力で這い上がり、そして遂に一派独立を成し得たのである。
これで、お天道様のもと堂々とおつとめができる、布教ができる、信者が路頭に迷わない。
請願運動の特命を一身に受け、身を粉にして、命を賭してまでも駆け回った松村吉太郎先生の回顧録が涙を誘う。
「人生意氣に感ず。よし、この人のためにならば、掛け替えの無い生命を喜んで投げ出そう。」
と思った。と言い、又、
「徹底的に教祖のひながたのまゝに、御自身が先頭に立って、青年達に示される。しかも、何とも言えない廣い親心で、人を責められたり、咎めたりされない。それでこそ、若い者は育つ、と、つくづくと感じた。
御意志の强かった事は、譬えようも無い程で、思慮の深い方だったが、一旦こうと心を定められたら、どんな事があっても、心を狂わさない。どこまでも、やり通される。私は、明治18年入信以来、教會本部設立、一派獨立と、終始御一緒に勤めさして頂いて、この人を頼りにして居れば、何よりも頼りになる、と、芯から思った程であった。全く、意志は強い方であった。その反面には、情にもろく寛容な方で、よく人の意見や氣持を容れられ、人を導かれるのにも、親切の限りを盡された方であった。」
本書において、主人公はもちろん中山眞之亮様。その骨子は、教会本部教会史である。
加えて、随所に登場する松村吉太郎先生もまた、主演格であり、陰に日向にその大いなる活躍と躍動の軌跡が本書の底辺を途切れずに流れているのである。
引用の第5章の括りは、上田嘉成先生の文筆力を遺憾なく発揮し、また、二代真柱様の思いを漏らさず表現なされていることと思う。
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(活字が潰れててお名前が読み取れません)
そして、ストーリーはいよいよ第6章「ふしん」、そして道の大節の場面を迎える。
第6章は、ようやく成った一派独立奉告祭の盛況ぶりと初代真柱様の多忙ぶりの列挙から始まる。
独立奉告祭の祭詞(387ページ)。そして、後段に、神殿普請の際の上棟式奉告祭祭詞(402ページ)が掲載されているが、これまたかなり勉強になる文章なので、じっくりお読み頂きたい。
独立請願と共に認可された新たな教規規則により部下教会が整備され、親里の学校が整備され、そしてまた一方で、婦人会と青年会の胎動は、本教発展の大きな一歩となったのではないだろうか。
婦人会発足に際して、たいそうお喜びになった初代真柱様は、
いはよりもかたきまこころむすみあひて
みちにつくせやこのみちの人
と、祝意を詠んだ。
岩よりも堅い真心を一つに結び合って、おやさまのおつけ下されたこの道にますます邁進を、との熱き思いが汲み取れる。
さらに、父秀司、母まつゑの30年祭を勤めた際には、
つたなきもをしへの長とあふかるる
親のめくみのありかたきかな
と思いを馳せた。
その意図するところを上田嘉成先生は、『長く暗闇の道中を通り、今日という日を見ずに終った父母の苦心を偲び、盛大に伸びゆく本教の管長たる自身の光榮は、父母の種の芽生えなり』と推し量った。
秀司先生、まつゑ奥様には、充分に初代真柱様の真心からの孝心をお受け取りになったことと思う。
この年、初代真柱様は身上障りとなった。
敵(カタキ)にも病せてならじ腦の癰は
我くるしみに思ひくらべて
と、周囲に決して心配をさせまいとする親心を現し、
寝ても起きても、身の置き所の無い程痛んだが、痛い苦しいと言えば、側の者が心を使うであろう。自分一人さえ耐えたならと思うて、辛抱したのである
と語られた。
更に、大正2年6月25日、東京教務支廳落成奉告祭に臨席した際には、次の詩を詠んだ。
何事もまことの心むすびあひて
つとめはげむぞ 神の道なる
前記の四つの詩を眺める時、道の芯としての大きな御心、悲壮な覚悟、斯道の精神、そしておやさまへの報恩を感じずにはおれない。
第6章末尾には、上田嘉成先生の言葉でこうある。
常に、青年を愛し、子弟の薫陶に全力を傾け、全教を率いて教祖のひながたを歩んだ
道の次第を整えられると共に、常に、道の将来を担う若者の丹精には特に心をかけられた。
そんな逸話も本書には綴られている。
この普請の最中、大正二年に、教校別科の第十一期から、ひのきしんによる教義の実踐、信念の體得ということが、日課の一つと定められ、その一つとして毎朝、教校の職員生徒が神殿の掃除を始めた。
眞之亮は、この事を聞いて、
「よし、日課とは言え、未明から起きて掃除をするのは、並大抵ではあるまい。我も人々を勵まし、詰所へ出て掃除を見て勞わろう。」
と言って、それから毎朝、別科生の朝の掃除ひのきしんを見る事となった。
その頃は、參拜場(現在の北禮拜場)が、普請の最中で、假神殿にお祀りして居た時であるが、朝勤までに掃除して了わねばならないから、時間は大そう早い。その、早朝の四時、五時という未だ暗い中から、眞之亮自ら毎朝のように詰所へ出て、懐中電燈を手にして掃除の模様を見て廻ったので、一同は感激して、一層心から勇んでひのきしんに勵んだ。この、眞之亮の思いが、本教教學の根本精神として、今日に至るまで脈々として流れて居る。
(中略)
そして、常に青年達に言った。
「この道は、智慧や力で行く道ではない。どんな立派な事を話しても、どれ程力があっても、おさづけを頂きながら、おたすけが出來ぬようでは、道の落第者である。お前等は、道の落第者にならぬよう、心掛けねばならぬ。」
と。
理に厳しく、情に篤い。
理は冷たいが人を活かす、
情は温かいが人を殺す。
まさしく、人を育てる要諦である。
その間、神殿と教祖殿の普請は、連日の多くのひのきしん者の手で着々と進む。
親里の活況が、文章から生き生きと伝わってくる。
普請完成間近だ!
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「天理教史参考図録」の表裏にわたる装丁
土は豊田山からもっこによるひのきしんで
八千坪の境内地が盛土された
初代真柱様は、明治43年以来の身上障りが本復せぬまま、尚も教務に明け暮れたが、約2年ぶりに月次祭斎主を勤めた。
ご体調を気遣う側の者に対しては、
働いて出直せば満足である。
と申され、ついに休むことはなかった。
とうとう歓喜あふれるその日を迎えた。
大正2年12月25日。神殿普請竣功。
大正3年4月。教祖殿落成。
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「天理教史参考図録」より
この年、12月4日、再び身上障り。
しかし、一言も、「痛い」と仰せられない。
このように看護を受け、寒さも知らずに寝て居る事の出来るのは、全く親神様の御守護、教祖の御恩恵による。
たまへ夫人はじめ、家族、本部内の人々、全教が一心に親神様に平癒を請い願う。
薬石効なく、その時は訪れた。
大正3年12月31日午後2時30分。
ふしん完成の慶事の年を見届けて、大晦日にお出直し。
49歳。
こんなストーリーが他にあるだろうか。
これ即ち、全て親神様のご支配であるとしても、私だったら変わらぬ信仰信念をその後も持ち続けることができただろうか。
しかし、当時の白熱の信仰者たちは、明治20年におやさまのお隠れに接し、そして、心定めの大切さと尊さを充分に身につけている。
それは、その後の布教伝道史を読み味わえば明瞭である。
人々は、道の芯を失おうとも心は倒れることなく、ただひたすらに導きの親である初代真柱様の心を我が心と成し、将来必ず訪れると信じる陽気づくめの世界を楽しみに邁進するのであった。
だから、今の私たちの信仰の道がある。
私たちには、おやさまがお付け下された道を未来へと繋ぐ大切な役目がある。
初代真柱様、そして歴代真柱様の、
おやさまを慕う心を、
私たちの胸にたたえて。
本書奥付にはこうある。
稿本 中山眞之亮傳
昭和38年11月1日印刷
昭和38年11月27日発行
編著者 上田嘉成
天理教教義及資料集成部主任
発行者 中山正善
奈良県天理市三島
印刷者 天理時報社
奈良県天理市川原城
今週もありがとうございました🙇♂️