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銀の魔王

この高校で「木下銀次郎」の名を知らぬものはいない。

二年生にしてバレー部の主将に就任し、校内模試では一年生の第一回から首席を維持し続けているというまさに文武両道を体現した男であり、また四月の生徒会長選挙では本命候補と目されていた三年生の前副会長を大差で破り当選、持ち前のリーダーシップと人心掌握術で学校全体を意のままに牛耳る男だ。

彼の性格は冷徹でストイックと評される。バレー部では彼の独裁体制が敷かれているらしい、生徒会で彼に選挙で破れた前副会長が事実上の更迭をされたらしいなど、彼に関する恐ろしい噂は後をたたない。いつしか彼は「銀の魔王」と呼ばれ、生徒達から恐れられる存在になっていった。

しかし、これはあまり知られていないのだが、彼は生まれながらの魔王であったわけではない。中学校の頃も成績優秀で運動神経抜群であることに変わりはなかったが、今のような冷酷無比な性格ではなかったし、学校を意のままに操るような権力欲も見せていなかった。むしろ誰からも好かれるような気さくな性格で、常に人間関係の輪の中心にいる人間だったのだ。

なぜ僕が彼の中学生時代を知っているのかというと、銀の魔王こと木下銀次郎は僕にとって幼馴染にあたるからである。幼稚園の頃から家が隣だった関係で彼とは家族ぐるみの付き合いがあり、中学を卒業するまではよくつるむ間柄だった。お互いの家には数え切れないほど遊びに行ったし、仲のいい男友達を聞かれると真っ先にお互いの名が挙がる程度には親しかった。

しかし高校入学後クラスが分かれたことをきっかけに関係が疎遠になり、彼と会話をすることがめっきりなくなった。それ自体は男同士の人間関係ではよくあることなのだが、その後の彼の変貌には僕自身驚いているし、彼と同じクラスの人に彼のことについて聞こうとしても怯えた顔ではぐらかされてしまうのが常だったので、魔王として君臨する彼は幼馴染の僕にとって全く未知の存在だった。

「銀ちゃんのあの話、聞いた?」

僕が空になった弁当箱を見つめながら魔王と化した幼馴染のことを考えていると、目の前で弁当を頬張る松本千代が話しかけてきた。彼女もまた僕の幼馴染であり、最も仲の良い女友達にあたる人物である。中学までは木下銀次郎を入れたこの三人で活動することが多く、高校入学後僕と木下の関係が疎遠になった後も僕と彼女の付き合いは続いている。ちなみに彼女も木下の変貌には驚いており、「魔王」の彼と会話をしたことはないらしい。それでも彼のことを「銀ちゃん」という昔からのあだ名で呼び続けるところが彼女の長所であるし、この高校で彼をその呼び名で呼ぶ度胸のある人間は間違いなく彼女だけだろう。僕が彼女の言葉に曖昧に返事をすると、彼女はお構いなく話を続けた。

「なんか銀ちゃんね、最近彼女ができたんだってよ」

僕は思わず箸を落としそうになった。中学までの気さくな彼なら何ら不思議ではない話だが、今の彼であれば話は別だ。「銀の魔王」に? 彼女が?

「その顔、やっぱり知らなかったんだね。今朝からどこ行ってもこの話題で持ちきりだよ」

確かに、今日は朝から学校が騒がしかった気もする。あまり校内のゴシップに興味はないので気にしていなかったが、そういう話題から最も遠い所にいる木下の話だとは思わなかった。

「昨日の放課後女の子と二人で手をつないで駅前を歩いてたらしいよ。ここの制服じゃなかったらしいから他校の子って話らしいんだけど、すっごくきれいな人だったんだって。目撃情報も複数あるから、確かな情報です」

松本はおどけた様子で胸を張ってみせる。しかし相手の女性の情報よりも、僕は木下が交際相手とのデートの現場を複数人から目撃されるような真似をしたことが気になっていた。冷酷無比な魔王として高校に君臨している彼にとって、交際相手の存在を知られることは恐らくデメリットしかないだろう。圧倒的なカリスマで周りを従えている彼にとって、それは弱みにしかならないからだ。一方で彼が迂闊に目撃されるようなことをするとも考えられないので、彼は何らかの意図があって交際相手の存在を露見させたに違いないのだが、その理由がわからない。

「いやー、銀ちゃんに彼女かぁ。でもちょっと安心したかな。変な話だけど、銀ちゃんも人間なんだなって」

――銀ちゃんも人間なんだなって。

その言葉が脳裏に嫌にこびりついて、離れなかった。

放課後になっても校内は木下の交際相手の話で持ちきりで、むしろより活発になっているような気すらしている。話自体は校内のおよその人間が知るところとなったので、「相手は芸能事務所の女優らしい」だの「ホテル街に消えていく所を見た」だの、荒唐無稽な尾ひれのついた話がまことしやかに囁かれ始める始末だった。帰宅部で特にすることもなく漠然と木下のことを考えていた僕がそろそろ帰ろうと教室を出たところで、急に一人の男子生徒に声をかけられた。この顔は見覚えがある。二年B組、木下のクラスの生徒だったか。

「あ、あのさ、君、木下君と幼馴染なんだろ」

正直なところ、面倒なことになったと思った。僕と木下が幼馴染であることはそれほど有名ではないが、特に隠してもいないので噂程度に知っている人はそこそこ存在する。この聞き出し方は間違いなく、今校内を席巻している噂について有識者たる僕のコメントを求められるのだろう。しかしあいにくの所、僕は中学までの彼はともかくとして「銀の魔王」こと木下銀次郎については何も知らないし、当然この噂について何の追加情報も持ち合わせてはいない。面倒な気持ちを全面に押し出した表情で男子生徒を見つめると、彼はおずおずと話しだした。

「俺、B組の学級委員なんだけど、えっと、もう一人が木下君で、だから二人して、先生からの頼まれごととかよくやってて、今日もやらなきゃいけない作業があったんだけど、木下君、見つからないんだ」

見つからない? 同じクラスで見つからないということがあるのだろうか。そしてなぜそれを僕に聞くのだろうか。僕の眉間の皺の本数が増えるのを見た男子生徒は、慌てた様子で話を続けた。

「5限の後、すぐ教室から出ていったんだ。ほら、木下君、生徒会長だからさ、生徒会の仕事なのかなって、思って、待ってたんだけど、いつまで経っても来ないし……生徒会室にも行ってみたんだけど、今日はずっと閉まってるっぽくて、近くにいた副会長にも聞いたんだけど、今日は生徒会の会合とかもなかったらしくって。他にも、バレー部とか、関係ありそうな人には聞いて回ったんだけど、誰も知らなくて。そういえばA組に、木下君の幼馴染がいるって、聞いたから」

なるほど、確かに彼にとって事態は深刻そうだ。なにせ今となっては木下とは無関係の僕を頼ってくるぐらいなのだ、相当切羽詰まっていると見える。彼の頼みも無碍にはできず、僕も木下の行方については何も知らないこと、また何かわかったら伝えることを約束すると、彼はほっとしたようにB組の教室に戻っていった。

一応約束はしたものの、やはり木下について僕は何の情報も持っていないことに変わりはない。ただ、男子生徒の話から察するに、おそらく彼は既に校内にはいないのだろう。まだ帰宅していないとすると、校外のどこかに――可能性は低いが、僕には思い当たる場所が一つだけあった。

「ホットカフェラテがおひとつでよろしいでしょうか?」

ウェイターの確認に黙ってうなずくと、僕は窓際の席の様子をチラチラと窺った。僕は高校から駅を挟んで反対側にある喫茶店に足を運んでいた。価格帯は手頃ながら雰囲気の良い店で、僕を含めて密かな常連客も多い。またこの店の存在はこの高校の生徒にあまり知られていないため、僕のような人間にとっては過ごしやすい場所だった。

そして何より、この店は僕ら幼馴染三人組にとって馴染みの場所でもあった。中学の頃は学校帰りに三人でこの店によく集まり、他愛のない世間話をしたりお互いに試験勉強をしたりしたものだった。高校に入って木下と疎遠になって以降も僕はよく来ていたのだが、木下がこの店にいるところを見たことはなかった。

しかし今、高校の誰もが彼の行方を知らないとなると、もしかしたら――そう思い駄目元で来てみたら、まさかのビンゴだったのだ。窓際の席に、魔王は静かに座っていた。……一人の女子と一緒に。

外から彼らの姿をみとめたとき、正直なところ入店するかどうか迷った。もし中で鉢合わせすることになれば気まずくなること必至であるし、何をされるかわかったものではない。しかし噂の真相を確かめるには絶好の機会でもある。なぜ木下が「そういう場面」を目撃させたのか、僕はそれを確かめなければならない気がしていた。しばらく悩んだ後、最近来ていなかったし、もともと常連なのは僕の方だし、と自分に言い聞かせ、意を決して喫茶店のドアを開いたのだった。

かくして店の奥の観葉植物の陰になる席を陣取った僕は、植物越しに木下と女子の動向を窺っていた。しかし二人は何か話に花を咲かせるわけでもなく、恋人らしくいちゃつくわけでもなく、ただ静かに座っているだけだった。

恋人にしては、そして恐らくただの友人だったとしてもあまりに動きがない二人の様子に、次第に僕は飽きてきていた。ただならぬ関係ではありそうだが、これ以上見ていても情報が得られそうにないと判断した僕は、いつの間にか運ばれてきていたカフェラテを啜りながらスマートフォンでSNSを眺め始めた。

一通り新着情報をチェックし終え、スマートフォンを机の上に置いた僕はため息をつきながら木下の席をふと見やった。そして、目を見開いたまま動けなくなった。

木下がこちらを真っ直ぐ見つめていたのだ。穏やかな笑みをたたえて。

早く目をそらさないといけないと思いながらも、僕の体は固まってしまって動かない。天敵に見つかった草食動物のように、僕は木下の視線から逃れることができなかった。体中から嫌な汗が吹き出す。

僕にとっては永遠に感じる時間が過ぎ、木下は何事もなかったかのように視線を戻し、連れの女子に声をかけた。声をかけられた女子は手元から顔を上げると――このとき気づいたのだが、彼女は本を読んでいたようだった――、静かにうなずいた。その後二人は荷物をまとめると会計をすませ、喫茶店を後にしていった。

脱力してしまった僕はしばらく喫茶店の机に突っ伏していた。まったく生きた心地がしなかった。

あれから後、高校では木下の交際相手の話題は次第に下火になっていった。結局それ以降新たな目撃情報が寄せられることもなく、また誰も木下に直接聞くことができずにいたので、話題が尽きてしまったのだ。

喫茶店の事件の翌日、例の学級委員の男子生徒にあの日木下は喫茶店にいたことを伝えようとしたのだが、僕が声をかけるなり慌てた様子で弁解まがいのことをまくし立てたかと思うと、そのまま逃げるように行ってしまった。

木下銀次郎は相変わらず「銀の魔王」としてこの高校に君臨している。彼が噂になるような行動を起こした意味、そして喫茶店で僕に向けた笑みの意味は、永遠に闇に葬られたのだ。

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