いらすとや三題噺「ヘルメスの来訪」
「いらすとや」のランダム表示機能を使って三題噺をしました。
お話の要所で「いらすとや」のイラストをランダムで引き、それに沿った筋書きで話を展開していきます。
修羅場と化した繁忙期の職場から命からがら脱出し、よろよろとした足取りで自宅のマンションのドアを開けた私を待ち受けていたのは、一柱の神であった。
「人間よ、余の計画に協力する名誉をやろう」
どうやら私は自分で思っていた以上に疲れているようだ。目の前にいる白い布を纏った男は幻覚の一言で片付けるにはパンチが強いかもしれないが、私はこれを幻覚ということにしておきたい。幻覚でなかったとすると現状私の自宅にコスプレなりきり趣味の男が不法侵入しているという現実を受け入れねばならない。そちらのほうが数倍パンチが強いし、何より面倒くさい。
自信に満ちた顔で何らかの言葉を発し続けている幻覚を横目に、私は風呂場に直行した。無視された幻覚は少し慌てた様子で何かを言っているようだが、残念ながら今の私に幻覚の発する言葉を処理する余力はない。一刻も早くシャワーで心身にこびりついたあらゆる汚れを流すのだ。ついでにあの羽根付きヘルメット男の幻覚もどこかに流してしまおう。どういう趣味だ。
衣服を忌々しげに脱ぎ捨てた私は素早く風呂場に入り込んだ。万が一あのコスプレ男が侵入して来る可能性を考慮し、内側から施錠もした。ワンルームマンションの風呂場の内鍵の存在意義が今までわからなかったが、今がその時だったようだ。少しカビた樹脂製の内鍵君は少し頼りない表情を浮かべているが、今がキミの一生で一番の頑張りどきだ。頼んだぞ、今日の私のシャワーの平穏はキミに委ねられている。
40度のシャワーを浴びながら、今自分が直面している問題に考えを巡らせる。まずは状況整理をしよう。現在、私の自宅マンションには白い布を纏った羽根付きヘルメットなりきりコスプレ男がいる。おしまいだ。どうしようもない。
しかし、現在その男がこちらに行動を起こす様子はない。流石にシャワー中の人にどうこうするような男だとは思いたくないし、そのラインは守られているようだ。ではそれを踏まえて今後の作戦を――と考えたところで、風呂場のドアを叩く音が聞こえてきた。
ドンドン! ドンドンドンドン! ドン!
ラインはかくも容易く突破されてしまった。あの男はやばい。やばい人間の中でも、かなりやばい方に位置している。私は一心不乱にシャンプーを頭皮に擦り込みながら、風呂場の内鍵君が耐えることを祈ることしかできなかった。普段掃除してやれなくてごめんな、だが今はキミが私の最終防衛ラインだ。不本意かも知れないが、どうにか私のことを守ってほしい。
しかし内鍵君が耐えきれなくなった時のプランも考えておかねばならない。優秀な人間は常にプランBを考えているものだ。脳内でシミュレーションをする。ドンドン、ミシッ、バリッ。いや無理だ。いくら優秀なビジネスマンでも、風呂場に侵入されたらおしまいだ。しかも相手は羽根付きヘルメットなりきりコスプレ男(やばくてやばい)である。投了。私はリンスを髪の毛に塗りつけながら涙を流した。こんなことで自分の無力さを感じたくはなかった。
ドンドンドン! ミシッ!
私の儚い最終防衛ラインもそろそろ限界のようだ。建設以来誰にも使われることなく、掃除もされず、なりきりコスプレ男に破壊される内鍵君が哀れでならない。私は髪の毛の水分を拭き取りながら神に祈った。ジーザス、我を救い給う。頼みます。
バリッ!
儚い断末魔とともに最終防衛ラインは崩壊した。
「火事場の馬鹿力」という言葉はこういうときに使うのだろう。私は男と風呂場のドアの僅かな隙間を掻い潜り、玄関に駆けた。いや、その瞬間の私は確実に「翔んでいた」。そして玄関に放り投げられたスマートフォンの存在を認めると、着信履歴からマンションの管理人の番号をタップした。この着信は私の部屋の前に置き配の段ボール箱がうずたかく積み上がっていたとき、隣人からの苦情を伝えられたときのものだ。ありがとう、名も知らぬ隣人。
管理人への電話は数コールでつながる。
「ハイ管理人です、どうしましたか」
「あのですね、今私の家にですね――」
そう言って顔を上げると、私の視界にとんでもない光景が飛び込んできた。
「おい人間、この管はいったいどういう――」
きょとんとした顔でこちらを見る、コスプレなりきり男。その手には風呂場のシャワー。シャワーから吹き出す水飛沫。それは脱衣所に水たまりを形成し――
私は人生二度目の「火事場の馬鹿力」を発揮することになった。男の手に握られたシャワーめがけて飛びかかり、シャワーヘッドを分捕るとそれを風呂場に放り込む。男が急に飛びかかってきた私に驚いているうちにシャワーの栓を切り、私は風呂場にへたり込んだ。
しかしへたり込んでいる場合ではない。私は脱衣所の水たまりの中で立ちすくむ男を睨んだ。何が起こったかわからないような顔をするな、その惨状は一から十までお前がやったことだ。責任の全てはお前にあるぞ。私の中でふつふつと怒りが湧き上がるのを感じる。そうだ、なぜ私があんな羽根付きヘルメット男に怯えなければならないのだ。人は腹が立ったら怒ったっていいはずだ。私のプランCはこれだ。覚悟しておけ。
決意を固めた私は硬直する男のもとにずんずんと進むと、その身に纏った白い布を剥ぎ取った。そしてそれを雑巾大に折りたたむと、脱衣所の床を拭きはじめた。水を吸い取るなんて生易しいものではない。床にこびりついた長年の汚れごとこそぎ落とす勢いでゴシゴシと拭いてやった。
「おい、人間、それは」
男が何かを言いだしたが、私が睨みつけると黙った。そのまま私は男に水を吸い取った濡れ布を押し付けると、風呂場を指差して「絞れ」と命じた。男はこくこくと頷き、おとなしく洗い場で布を絞りはじめた。
それを繰り返し、ようやく洗い場の床は元の状態に復帰することとなった。さっきまでは自信満々な表情を崩すことのなかった男は捨てられた子犬のような目でこちらを見ている。私は居間のソファに座ると、床に男を座らせた。さあ、洗いざらい話してもらおうではないか。
「お前は誰だ」
「……」
「何しに来た」
「……」
「目的は何だ」
「……」
それからというもの、すっかり小さくなったなりきりコスプレ男(全裸)に延々と取り調べを敢行したが、男は俯いたまま何も答えない。私のした行為に腹を立てて黙秘を貫くつもりなのか、思った以上に自分の布で部屋の掃除をさせられたことが効いたのか。
「おい」
男の肩を叩くと、ゆっくりと潤んだ目をした顔を上げた。どうやら後者だったようだ。
私は立ち上がり、冷蔵庫を開ける。ほぼ空っぽといって良い冷蔵庫だが、生活必需品である缶ビールと酒のつまみは常備している。缶ビールと塩辛を取り出すと、居間のテーブルにそれを置いた。思いの外力が強くなり、ドンという音がした。男の肩がビクッと震える。
「食っていいぞ」
塩辛のパックを男に差し出すと、男は戸惑った顔で塩辛を見つめている。そして覚悟を決めたふうな顔をすると、恐る恐る一本の塩辛をつまみ、口に含む。そして、盛大に噎せる。一旦落ち着くと、もそもそと噛み始める。噛み切るのに苦労していた様子だったが、しばらくするとごくん、と飲み込む。
面白い。
一連の流れを見ていた私は、想像以上に面白い食べ方をするものだから思わず吹き出していた。人が塩辛を食べる様子を肴にビールを飲むことになるとは思わなかった。クスクスと笑う私の様子を見て許されたと思ったのか、男はポツポツと喋りはじめた。
「……気がついたら、ここにいたのだ」
「最初は牢かと思った。私の行いが主神の怒りに触れ、牢に繋がれたのかと思ったが、牢としても狭すぎることが気にかかった」
「周りを観察すると、余の知らない物が多くあることに気がついた。というより、余の知る物はひとつとしてなかった」
「そこへ人間がやってきたから、余を元の場所に帰す使者かと思ったのだ、そうしたら、そうしたらっ……」
そういうと男は再びよよよと啜り泣きはじめてしまった。これは少し強く当たりすぎたかもしれない。というか、この期に及んでこのようなことを言うということは、この男は本当によく知らない世界からこのマンションの部屋に流れ着いてしまったらしい。コスプレなりきり男の線が完全になくなったわけではないが、そうだったとしてもここまで来たらむしろ天晴というものだ。
「私も事情を知らず、少しやりすぎてしまったかもしれません。すみませんでした」
私は頭を下げる。謝るべきときには謝るのができる人間である。
「そして、貴方は一体誰なんですか」
男はゆっくりと答えた。
「……ヘルメスである」
……ヘルメス? あのギリシャの? あの高級ブランドの?
「ヘルメスって、ギリシャの?」
「うむ」
どうやら私は古代ギリシャ神の一柱の服を剥ぎ取り、部屋を掃除し、あまつさえそれを自らの手で絞らせたらしい。致し方ない状況だったとはいえ、血の気が引いていくのを感じる。
「本当に、申し訳ありませんでした」
美しい土下座。できる人間は必要とあらば土下座でさえ厭わない。古代ギリシャの神にこの礼儀が伝わるのかはわからないが、これが私のできる最大限の謝罪である。殺さないで。
「して、ヘルメス様」
「な、なんだ」
「先のお詫びがしたいのですが、何かしてほしいことはございますか」
古代ギリシャ神の「してほしいこと」がこの小市民の手に負えるとは思えないが、恐る恐る伺った。最悪命は差し出そう……いや、全身鞭打ちくらいで勘弁してほしい。殺さないで。
「それならば」
ヘルメス神の言葉を待つ。古代ギリシャの人々はこんな緊張感で神の宣告を聞いていたというのか。鞭打ちだろうか、何らかのえげつない天罰なのだろうか。自分のせいで日本が滅んだらどうしよう。日本で済むんだろうか。思考がぐるぐると回る。時間が無限に感じる。
「これを、もう一本……」
ヘルメス神は塩辛を指して言った。
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