水彩スケッチ・中国風景(大連・瀋陽・旅順)
1999年(平成11年)8月下旬、某旅行社が企画したツアーに参加して中国へ行って来た。当時、名古屋からの直行便は無く、福岡空港で乗り継いだ。1時間35分のフライトで現地時間午後1時40分大連空港に到着。(日本との時差は約1時間)
貝細工の工房見学や星海公園を散策して、その後、大連の中心部に在る中山広場へ行く。広場に面した大連賓館(旧大和ホテル)でお茶をして休息。
夜はホテル近くの菜館で広東料理を食べた。
私にとって初めての中国の印象は次のとおり。①町は埃っぽい。②道路の横断は極めて危険(信号は車のためにある!)③走ってる車は殆どが中古のフォルクスワーゲン。④港町特有の活気がある。⑤超近代的ビルと粗末な庶民の家が雑然と入り混じっている。
これは25年前の中国の印象で、現在はきっと変わっているだろう。
翌日は、大連駅朝7時半発の特急列車に乗り、瀋陽(旧奉天)に行った。金州、大石橋、鞍山、遼陽、煙台を通り、渾河を渡り、瀋陽南駅(旧奉天駅)で一時停車。12時過ぎ瀋陽北駅に到着する。
瀋陽に向かう特急列車には食堂車が付いていた。で、昼食を摂るため一人で食堂車に行った。時間が早かったのか客は誰もいなかった。広い窓際の席に座る。少し汚れた感じの白い服を着た女性が注文を取りに来た。が、言葉が分からない。‘‘メニュー、メニュー‘‘ と言うと、女性はB5サイズほどの厚紙を持ってきた。厚紙は四隅がすり減り、黄ばんでしわが縒っていた。5品位の料理の名が墨で手書きされている。全て漢字だ。で、しばらく眺めてから、肉、油、菜の字が入ったメニューを指さして注文した。
と、パイファンは?と尋ねて来たので、‘‘イエス、パイファン‘‘と応えた。パイファンというのは、ご飯のことだ。独身だった大阪時代、夕食は庶民が行く中華料理店「珉珉」で、仕事仲間とビールを飲みながら済ませることが多かった。で、パイファンが白いご飯だというのを自然と覚えた。
のどが渇いたのでビールを注文した。すると、傷だらけのプラスチックのコップを持って来て、窓際に立ててあった、金色の紙に包まれたビールの小瓶の栓を抜いてくれた。
冷めて固くなったご飯に、生ぬるいビール‥‥。しかし、とろみの付いた肉が多めの野菜炒め?は凄く美味しかった!。文句なしの本物の中華料理だった。果てしなく広がる緑一色の景色を眺めながら、ゆっくりと食事する。
こうして列車は遼東半島を北上して旧満州平野へ入っていく。食堂車も少しずつ客が入って来た。
食事が終わり、中国の通貨、人民元で支払いを済ませ、席を立って歩き始めると、背後でにぎやかな声がする。振り向くと、給仕をしてくれていた女性が、なんと! 私が食べた料理の皿を他の客に見せて回っている。驚いた。中国語は分からないが、こう言っているようだった。゛見て見て! あの日本人は、こんなに綺麗に一つも残さず全部食べたのよ。分かる? ここの料理は、日本人も完食するぐらい美味しんだから。ほら、よく見て ゛‥‥。少し恥ずかしかった。
厨房からも車内の様子はよく見えるのだろう。厨房の横を通り過ぎるとき、中年の二人の調理人がニコニコ顔で私を見送ってくれた !(^^)!
夜は、餃子の老舗「老辺餃子館」に行った。1829年の創業だという。瀋陽故宮の北東、繁華街「中街」に在る。
中国の旧満州地方では、餃子は水餃子(茹で餃子)が主流で、主食として食べられている。このため、皮は厚く中の脂は漏れ出しにくい。日本のように、噛むと中の脂がじゅわぁ~と出てくるというわけにはいかない。で、正直、あまり美味しいとは思わなかった(個人的感想です)。
歓談して外に出ると、雨が降ったのか、道のあちこちに水たまりが出来ていた。その水たまりに周囲の店の電飾が映っている。25年前の瀋陽の繁華街は、道は未舗装の土の道で、広告・装飾灯はネオンサインではなく電飾だった。土の道に水たまり、電飾‥‥。どこか郷愁を誘う光景だった。
大陸の奥から吹いてくる風はすでに初秋の風だった。その乾いた風が強い酒に火照った身体に心地よかった。
中国三日目。瀋陽北駅を朝8時発の列車に乗り、12時15分大連駅に着く。アカシアの並木が続く旧日本人街のレストランで昼食。その後、バスで旅順へ行った。途中、旧ロシア人街を通過した(見出し写真)。
旅順軍港を車窓の左側に見ながら、やがて203高地に到着。
203高地は日露戦争の激戦地の一つである。203高地から旅順軍港までは直線距離で約4キロメートル。で、203高地の頂上に、砲弾を打つための「観測所」を設ければ、旅順軍港に停泊するロシアの北洋艦隊に決定的な打撃を与えることができる。北洋艦隊の無力化は、来るべき日本海海戦に備える日本の連合艦隊にとっては、背後からの砲撃を事前に排除しておく意味で、最大の懸案事項だった。
戦争当初は、日露双方共、203高地の戦略的重要性に気付いていなかった。が、戦況が進むにつれ双方がその重要性を認識した。で、凄まじい攻防戦が展開するが、1904年(明治37年)12月5日、203高地は遂に陥落した。
203高地を見た後、水師営へ行った。
「水師営」とは元々は清国海軍の駐屯地のことを言うそうだ。旅順軍港から北へ約5キロメートルのところに在る。1905年(明治38年)1月2日、旅順の「開城規約」が締結され、戦闘は停止した。同月5日、第三軍司令官乃木希典と旅順要塞司令官ステッセルは水師営で会見した。会見所は、戦闘中、日本軍が病院として使っていた農家で、中庭には棗(なつめ)の樹が植えられていた。農家はその後長い間廃屋だったが、1997年(平成9年)、歴史遺産の一つとして復元、公開された。
第二次世界大戦後、中国人民解放軍は203高地や水師営を含む周辺一帯を外国人の立入禁止区域に指定していたが、1996年(平成8年)7月、
この指定は解除された。
一連の見学を終え、午後5時前大連のホテルに帰って来た。夜は大連市の中山区修竹街に在るレストランで海鮮料理(山東料理)を食べた。
食後、お茶を飲んでいると、店の女将さんが壁に何幅もの掛け軸を広げ出した。そして、その一つを指さし、これは溥儀(清朝最後の皇帝・ラストエンペラー)の姪が実際に書いた掛け軸、真筆だと言い、これがコピーでない証拠に、ほらこの通り削ると墨が落ちてくる、と言って、墨書の字をカリカリと削って見せた。(売り物にわざわざキズを付けるか?!)
軸には、李白の誰もが知っている有名な詩が書かれていたが、女将さんのわざとらしいパフォーマンスに座は少し白けた。結局、掛け軸は一幅も売れなかった (^_^;)
翌日は老虎灘公園や中山広場近くの旧満鉄本社などを見て、午後3時近く大連空港を飛び立った。行きと同様、福岡空港で乗り継ぎ、午後8時半名古屋空港に無事到着した。