時間の濃度が、親密度を深める
ずっと誰かの「馴染み」になりたかった。
子供の頃から、父の仕事の関係で引っ越しを繰り返してきた。
その後日本と中国を行ったり来たりすることも多くなって、いつしか私にとって「地元」という概念が薄れた。
従ってもちろん「地元仲間」とか「幼馴染の友達」という存在もいない。
何度も経験しているとはいえ、やはり既に馴染みメンバーで固まっているグループに入るのはとても大変なことで、いつも自分が「部外者」のように感じた。
しばらく経って、少し仲良くなったと思ったら、また転校だ。
転校後も最初は手紙や電話をくれた友達もいた。が、時間が経つと徐々にしなくなった。
私は皆にとっていつも「どうでもいい存在」だった。
ある時、久しぶりに話そうと長い間連絡しなかった友達の家に電話した。
「decoです、○○ちゃんですか?」と聞いたら、
**
「そうだけど……deco?誰?」**
と言われた。
まだあまり時間も経っていないのに、もう忘れられてしまったのだ。
ひどく傷ついた。
あまりのショックの大きさに、20年経った今でもその日のことをはっきりと覚えている。
以降、私は仲良くなり始めた誰かと距離を取るが怖くなった。
仲が薄れ、関係が自然消滅するのが嫌だったからだ。
また、私は「仲良くなる為には、共に過ごした時間が長くないといけない」と信じ込むようになった。
それ故、話すことが無くても延々とメッセージや電話をしたり、隙あれば相手とベッタリくっついた。
こうすれば仲間と見てもらえる、そう思った。
けど余計に詰め過ぎた距離がかえって気まずさを生んだ。
今度はうっとうしいと言われ、周りから人が逃げて行った。
「人を寄せ付けない体質を持っている」と自嘲し、誰かに覚えてもらえて、仲良くしてもらえることを諦めた。
段々と忘れられても悲しくなくなり、私自身も同じように皆のことを忘れるようになった。
そんなある日。
数年も連絡を取らなかった大学の友人から電話がかかってきた。
その日は簡単な近況報告で終わったが、その後もポツリポツリと連絡は続けられ、時には共に食事もするようになった。
それからしばらくして忙しくなり連絡が絶えたが、先日また電話がかかり、
「あなたの声を聞くと安心するわぁ」
と言われた。
不思議だ。
この友達とは普段は離れ離れで、会うのも一年に数回ぐらいだ。
しょっちゅう連絡している訳でもなく、話題もほぼ近況報告のみで終わる。
けど、話が弾む。
元気が出る。
いつも励まされる。
どんな時でも、まるで離れたことがないように親密に話せる。
「相手は絶対に私を忘れることはない」、そう信じれる。
私もこれからずっと、この子のことは忘れないだろう。
あれから、一つ悟ったことがあるーー
疎遠になっているように見えても、
必ずしも仲が悪い訳ではないということを。
確かに、親密さを育てるには時間が必要だ。
会話が少ないと、そもそも関係は深まらない。が、
たとえ数十年会話を続けられたとしても
その内容がうわべだけのものであれば、
永遠に分かり合うことはない。
大事なのは交流の量でもなく、時間の長さでもない。
時間の濃度だ。
そしてこの濃さはどれ程互いに認め、尊敬し合えているかによって決まる。
しっかりと心を引っ掛かり合う。
そうすれば、時間も、深さも自ずとついてくる。
無理にくっつかなくても、残ってくれる人は、決して傍を離れたりはしないのだ。
(はてなブログ同時掲載:https://www.gifteddecoboko.com/entry/2019/12/26/080000)
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