「ギフテッドだから」を乗り越えての援助実践〜大阪と高知の講演まで後わずか
今年度の非常勤(講義)が終わった。10,11月と詰め込んだおかけで,12月から春までのほほんと暮らせる。採点と評価の作業が残っているが,まずは大阪と高知での講演の準備。論文の方もクリスマス前には脱稿し,暖炉のある山荘でのんびり湯治と冬の星座観察会だな。おっと人間ドックがあった😩
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スライド作りも佳境に入ってきた。大枠は出来上がった・・・と思う。後数日は見直しかな。
この間苦悩していたのが「結語」・・・援助の最終段階。
ギフテッドの援助実践のたどり着いた先。仮に,ギフテッド教育というカテゴリーがあれば,その目的というかゴールは何か。
ドンブロフスキの積極的分離理論の第5段階は完成された人間像。
「個人的内省に基づく統合、創造、達成により、意識的、個人的価値観によって選択される統合。時に芸術表現として顕れる。責任感、親切心、利他主義を持ち、その視線をより抽象的で高レベルな原理へと定着させる。他者を助けるために動き、労力や努力をそのために捧げる人もいる。自らの足跡をこの世に刻み込みたいと思うようになり、進歩を促進することに集中し始める。」(ウィキペデイアより)
誰もが到達できるような段階ではない。
ドンブロフスキは,「ギフテッドだから」到達すべき段階と考えたのか?個人的には第4段階すら到達できない。
この人間像は,マズローの欲求6段階説の6段目「自己超越」とも重なる印象が。
利己主義ではなく利他主義が一つの人間としての完成形なのか?西洋文化の色彩強いと言えるのかな。それなら「ギフテッドだけ」に求めなくても良いのでは,利他主義は,もっと普遍的なものではと愚行するわけで。
「ギフテッドだから」を乗り越えた先には何が見えてくるのだろう。
後数日考えを巡らすことに。
援助実践と言っても,目の前の子どもを見て,当たり前のことを積み重ねてきただけ。
好きなことを見つけて,自分らしく生きられること・・・それがどこか社会で役立てばいいかなくらい。