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あなたの自己否定はどこから?

私は、「競争」から。
だと思う。(某CM風)

思えば、断続的に嫌がらせを受けていた幼少期は、「自分が目立っているからいけないのだ、結果や役職がいいからと言って調子に乗ってはいけない」と考えていた。

だから、塾で最下位を取った時とてもうれしかった。目立つような結果ではなかったからだ。

そこから高校でも平均的な成績で卒業した。

他方、大学生になってからは、ここにいれば大学院に行けるとがまことしやかにささやかれていた順位や成績に囚われていた

ここで共通した思考は、常に「上下」で物事を見ていること。
小さい頃は「にいるから目立ってしまうんだ。」
高校大学は「基準よりにいるからダメなんだ」

そうなると自然と人と自分も上下で比べることになる。
その結果、上を見上げて落ち込み、それを自分に直結させて、ダメ人間という思考が完成する という流れを経て、今のネガティブ人間の一端が出来上がったらしい。

でも、そもそも、上下で人を図ることができるのか。

確かにある一点ではできると思う。それこそその時の中間テストとか、GPAとか模試の順位とか。
でも、個人は、そんな一つの軸で測れないくらい多くの面を持っていると思う。勉強だけでも、数学の計算問題が得意な人もいれば、証明が得意な人もいる。現代文が得意な人もいれば、古典が得意な人も、文化史を覚えるのが好きな人だっている。

少し書いただけでこんなにいろいろあるのに、組み合わせまで考えたらそれこそ数えきれない。
そう考えると、人は、自分ではわからなくてもそれぞれ「自分」という個性があって、比較なんて到底できないし、できるとしても「自分」のほんのひとかけらなんだなと思えた。
そして、その「自分」を携えて「自分の人生」という名前の道を歩んでる。
これは受け売りの表現だけど。

なんだか何をそんな比較してたんだろうと思い始めてきた。

それに、色々なかけらが集まって「自分」が作られていて、その「自分」は全員違うと思えたら、考え方は相手と私で違うことも納得しやすいし、相手と自分は違うけど、「自分」という道を歩んでいる自分も別の「自分」という道を歩いている周りの人も、道を歩んでいるという意味では同志ということもできるから、「一緒に頑張ろうぜ!」みたいに尊重できる気がした。

そうはいってもやっぱり社会のシステムには競争が組み込まれているし、その荒波にはもまれ続けるのだろうけど、そこから逃げようと躍起になるより、心の中に人は、かけらが集まった「自分」で、社会はその「自分」の集合体で、人は「自分」という道を歩む同志だというイメージをもって、時々思い出せたら、少し軽やかに進める気がした。

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