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星の子/今村夏子


「星の子」は、今村夏子さん原作の小説。
私が初めて今村夏子さんの本を読んだのは、
「こちら、あみこ」で、たぶん生まれつき、
周りの人と協調するのが難しい子のお話しでしたが、この「星の子」は(宗教二世)の子の物語です。

主人公の林ちひろ(芦田愛菜)の両親は、バカ高いお金を出して(金星のめぐみ)という水を、ある宗教団体から買っている。初めは会社の同僚がタダでくれていた水だったのだけれど。
 自分の子供が病気になれば、藁にも縋りたいのが親なんだろうなぁ。
 もし、それが単なる偶然だったとしても、
治る時期が宗教を始めた時と重なっていたら、(人によっては)それを信じてしまうのかもしれない。

「こちら、あみこ」の、あみこが、決して、
両親や周りの人たちの悪口を言わないように、「星の子」の主人公、ちひろも決して、
両親を悪く言ったことがない。
 家庭の生活費は、すべて宗教団体の寄付に消えて、ちひろの食事は、その日、両親が団体から恵んで貰えるクッキーや野菜で、何とか成り立っているが、授業で使うノートさえ遠慮して買ってもらったことがない。

ちひろの心は、いったい、どこにあるのか?
 見かねた親戚のおじさん、おばさんに高校進学の話しを持ち出されて、その場で返事が出来なかった、ちひろは喫茶店で出されたモンブランのケーキを食べられずに、いつまでもフォークの音だけが、カチャカチャ鳴っていた。
というシーンが、本でも映画でも、いちばん印象的だった。

でも、「星の子」には、宗教団体や二世の、
生々しい場面は一切、出てきません。
ホントは、こうなんじゃないか?
ああなんじゃないか?
と、あくまでも、見ているコチラの想像に委ねるというか、(宗教二世)をそこまで掘り下げている映画では無い気がします。

じゃあ、いったい、何を描きたかったのか?
ちひろは、あくまでも、両親を純粋に愛して
両親も純粋に、ちひろを愛している。
一見、初めから最後まで宗教を絡めた家族の愛の物語のように騙されそうになりますが、
やはり、どこか狂っている。
 こんな酷い両親を愛せるワケがない。

映画のセリフも、ほぼ原作どおりでした^^

ちひろの両親は残酷だ。
毎日、ちひろを断崖絶壁に立たせている。
この家族は、ある意味、毎日、同じ演技を繰り返しているのだ。ちひろの両親は生活には何も困っていないし、(お米さえ買えないのに)自分たちは神様からの愛で、すべてが満たされている。
そう信じている。
ちひろは、ちひろで、お腹が空いているという感覚さえ、たぶんもう失いかけている。
人間、あまりにも酷い目に遭い続けていると、もうそれが(フツウの生活なんだ)と、
思い込まされてしまう。

あるいは、疑問を感じたところで、まだ中学生のちひろには、どうすることも出来ない。
親戚の人たちが、進学を応援してくれると言ってくれたけれども、それはそれで、どこか両親に後ろめたい気がしているのだろう。
ちひろが自分の道を自分で決めた時、もしかしたら、両親との永遠の別れが待っているのかもしれない。
 ちひろが、イイ子すぎるのが気になった。
自分の感情をすべて押し殺した時に、人は
破綻せずに日常を暮らしてゆけるのか?
学校でも金星の水を飲んでいたちひろだが、それ以外はすべて周りに合わせられるところが、器用すぎて何か違和感を感じた。
 また、ちひろの同級生たちも、宗教二世のちひろを、冷たい担任の南先生(岡田将生)、以外は、どこか受け入れているところがあって、それもかえって不自然な印象を受けた。
 世の中、そんなに異質な世界の人を、
「わかる、うん、わかるよ」と受け入れてくれる人たちばかりじゃありませんから。

教室で、(金星の水)を飲むこと以外は、皆んなに付いて行こうと努力していたちひろですが、それはもしかしたら、宗教にのめり込んで、一向にちひろを顧みようとしない両親への、精一杯の(抵抗)だったのかもしれない。
 「私は、あなたたちのように、自分から社会を閉ざしたりはしない」と。


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