冬の向日葵(第10話)
「夏の大三角&幸せの鐘」
*
死にたくないよ!
真樹はビーチマットにうつ伏せになり、さっきまで満ち足りた気分で波にプカプカ揺られていたのに、いまやそれは恐怖心に変わっていた。
砂浜でポムと秀くんは、いま私が流されていることに気づいているかな?
岸まで何メートルあるのか、想像もつかない。100mなのか、もっとなのか。
わかるのは、このビーチマットを捨てても、25mも泳げない自分が、あの岸まで辿り着けることは絶対にないだろうという事だけだ。
私、ここで、死ぬの?
「今日、杉原真樹さんが、○○海岸で、沖へ流されて心肺停止の状態で、病院へ搬送されました」なんて夜のニュースで流されるの?
そんなの、絶対、嫌だ!
あまりの恐怖に叫び出したくなる。
でも、それをすれば、たちまち我を忘れて、絶対、パニックになってしまうだろう。
お願い、秀くん、助けて!
*
砂浜では、ポムと秀明が海に流された真樹のことを心配していた。
「真樹ちゃん、戻って来れないみたいだね」
ポムが言うと、秀明は、「取り乱している風には見えないな。でも、流されているのは、間違いないね。何とかして助けなきゃ」と言った。
真樹は、どんどん沖へ流されてゆく。
(このマットだけは、死んでも放すもんか。)
と、真樹は強く思った。
必死でビーチマットにしがみつく真樹。
それでも、やっぱり、死への恐怖は消えない。むしろ、だんだん強くなってくる。
(私、今日で死んじゃうの?そんなの嫌だ)
あんなに毎日イヤだ、しんどいと思っていた毎日が、急に愛おしく思えてきた。
その時、一年前の春に亡くなった母さくらと、父、俊夫の笑顔がフッと波間に浮かんだ。
(パパ、ママ、私そっちへ行ってもいいの?)
*
真樹はもう、どのくらい波に揺られているのかわからなくなり、挫けそうになったが、ふと、あることに気づいて、ハッとした。
この波、沖へ向かってない。
なんか、横へ横へと流されている。
それも、岩場の方へ。
もしかしたら、あそこまで流されたら、助かるかもしれない。
真樹は祈るような気持ちで、この波が岩場までビーチマットの自分を運んでくれるのを静かに待っていた。
お願い、岩場まで辿り着いて!
海岸では秀明とポムが、真希のビーチマットが岩場の方へ流されるのと並行して、ひた走っていた。「真樹、頑張れ!」
「いま、助けに行くからね、真樹姉ちゃん!」
ポムと秀明が、先に岩場へ辿り着いた。
真樹のビーチマットも、次第に岩場へ近づく。
だが、波はとても荒い。近づいてもタイミングを逃したら、また流されてしまうかもしれない。ビーチマットと、岩場まではまだ少し距離がある。失敗すれば、マットも失くして、真樹は溺れるだろう。
「真樹、勇気を出して飛ぶんだ!」
秀明が、岩場の方から、ギリギリこちらまで手を伸ばす。
えっ、飛ぶの?
いま、いましかないよね?
飛べるかな、恐いよ!
ビーチマットから岩場までの距離は正確にはわからないが、たぶん真樹が思いきりジャンプしてギリギリ届くかどうかの距離だった。
真樹はしがみついていたマットから、バランスを取って立ち上がり、ありったけの力でジャンプして、岩場の上に転げ込んだ。
ビーチマットは、波に流されてしまった。
ポムは、泣きそうだった。
「もう、心配かけないでよ」
「ゴメン、ゴメンね、ポム」
真樹は濡れた体のまま、ポムを抱きしめた。
真樹はポムと海の家でシャワーを浴びた時に、さっき岩場で擦りむいた足や腕の傷がちょっと染みたけど、着替えて三人でラーメンを食べていたら傷の痛みも忘れた。
「海の家で食べるラーメンって、なんでこんなに、美味しいんだろう?」
と、真樹は、しみじみ言った。
「そうだね、有名ラーメン店とはまた違う、どこか懐かしい味っていうか」と、秀明。
「潮風の中で食べるから、美味しいんじゃない?」と、ポムがラーメンを啜りながら言う。
「そうだね、それ、正解かも。自然の味付けだね!」と、みんなで笑った。
*
夕陽が、もう水平線の向こうに沈みかけている。窓を閉め切っていた帰りの車の中は、サウナのように暑かった。冷房が効くまでには、少し時間がかかるだろう。ポムは疲れたのか、後部座席でウトウトしている。
「真樹、今日はホントにゴメン」と秀明は車を運転しながら、謝ってきた。
「ううん、私の方こそゴメン。油断してた」
それにしても、と真樹は思う。
(もし、私があのまま流されていたら、ポムは、どうなっていただろう?)
考えただけで、真樹は怖くなる。恵叔母さんは、今度こそ、ポムを児童施設に入れてしまうかもしれない。そう思いながら、真樹も疲れたのか、だんだん眠くなってきた。
「おーい、寝ないでよ!」
真樹は、秀明の声で、ハッと目が覚めた。
「あ、私寝てた?ゴメン、秀くんの方がもっと疲れているのに」
「いいよ、真樹のためなら、たとえ火の中、水の中、ってね。なんて、俺、情けないことに、あんまり泳げないんだよね」
「でも、ちゃんと助けてくれたわ」
「でも、真樹の運の良さも、きっとあったと思うよ。人が助かるとか、助からないかの別れ道って、きっと、100万分の1秒の運命の差なんだよ」
そうかもしれない、と真樹は両親の一年前の交通事故を思い出す。救急隊や警察の人は、駆けつけた時に、まだ意識のあったママから、猫を避けてガード下に転落してしまったと事情を聞いたらしい。
あの時の猫は助かったのかしら?
ちゃんと、お家へ帰れたのかしら。
秀明は真樹の沈黙に気づいて、
「あ、ゴメン。俺、なにかヘンなこと言っちゃったかな」
「あ、ううん、全然平気だよ。それより、のどが渇いたね」
*
帰りの車は朝も通った道の駅に寄ったが、もうとっくに日は暮れてどの店も閉まっていて、二人は自販機でジュースをポムの分も買った。
「少し休憩しようか」
真樹と秀明はポムが眠っているので、車の窓を半分開け放したまま缶ジュースを持って、どちらともなく、歩き出した。
道の駅の、海に向かっているレストランのテラスからの眺めは抜群だけれど、ここの海に海水浴場は整備されていないから景色を眺めるためだけの海だ。
テラスから海へ続く道の手前には、ハート型のアーチがあり、その真ん中には「幸せの鐘」がある。カップルでこの鐘をで鳴らすと、ふたりは結ばれるという、伝説があるらしい。
「これが伝説の、幸せの鐘かあ」
と、真樹が鐘を見上げると、
秀明が、突然、真樹の手を取り、
「一緒に鐘を鳴らしてみる?」
と、真樹を見つめた。
「え、いま?」
「そう、いまさ」
リンゴォーン。
夏の夜空に凛と響きわたる鐘の音。
真樹の心は震えた。
すごく聖なるものに、触れた感じ。
秀明が真樹を抱き寄せ、キスをする。
缶ジュースが手から落ちて地面に溢れた。
今日は、なんて目まぐるしい一日だったんだろう。真樹が地面に落ちた缶を拾おうとすると、秀明がそれより早く缶を拾った。
「今度、真樹を母さんに紹介するよ」
「うん」
夏の夜の思い出。
夜空には夏の大三角形の白鳥座が輝いていた。
(冬の向日葵、第11話へ続く)
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