セルフネグレクトと書くこと
格好つけると文章はかけないというのがここ最近私が得た知見だ。短文なら誤魔化せても一万文字を超えてくるときついものがある。だから格好のついた長文を書ける人というのは自然体で格好をつける方法を心得ている人なのだろう。そういえば「偉そうなのではなく偉いのだ」と言っていた大家もいた。私などはとてもそんな気にはなれないので今日も雑文と呼ぶには相応しい雑な文章を書こうと思う。
文章を書くのは嫌いではない。人に書いたものを見せるのは気後れするが、ものを書くという行為自体は煩わしい事情に囲まれた現実の体を忘れさせてくれるから好きだ。
最近たまに目にする「セルフネグレクト」という言葉を聞くと私はどうしても「忘我」という日本語が頭をかすめる。「セルフネグレクト=自己放棄」という訳からの連想ゲームなのだが、正しい意味は医学用語で「自分自身の健康や安全に対する無頓着」のような意味らしく全然違う。(ちなみに適当にググって一番上に出てきたものを短くまとめただけなので詳しく気になったらご自身で調べて欲しい)このセルフネグレクトだが、流行り始めるとあれもこれもセルフネグレクトにあたるんじゃないかと不安になってくるので困る。もちろんちゃんとした診断は医師に貰うべきだと理解しているが、こればかりは感覚的なものなので仕方がない。
例えば忙しいからお風呂に入らなかったり、ご飯を抜いてしまったり、食べやすいから麺類ばかり食べたり、髪を切るのを先延ばしにしたり、病院の予約を渋ったり、こういうのは怠惰な私にとっては茶飯事だ。これらもセルフネグレクト的な傾向と言われればそんな気もしてくる。まあこれくらいならあながち外れてもいない、というか普通に身につまされるのだが、例えば今書いている文章、やることをそっちのけで現実を忘れるために書いているこれなんかも、よもや該当するのではないかと思い始めると危険だ。思い込みが激しい私はついついそんなことを考えてしまうのだ。
実際、文章を書いていると他のことに注意が散漫になる。友人からの呼びかけに一歩遅れたり、目の前の現実に確信が持てなくなることがよくある。離人症的な感覚にも近いのかもしれないが、私はこの浮遊感を楽しむためにものを書いているところがある。先ほど述べた「忘我」という言葉も近いのかもしれない。文字通り我を忘れることができるのだ。熱中して書いている小説なんかがあると、ご飯を食べるのも人と会うのも面倒な時はざらにある。そんな時私が忘れようとしているのは果たして本当に「我」なのだろうか。自分自身を取り囲む複雑で移ろいやすく巨大な情報から身を引き剥がす思いで一心不乱になにかものを書いている時、放棄されているのは自己であるのか世界であるのか、私にはよく解らない。