本を読まない若者へ、あるいは本を読んだからにはものを書いたほうがいいということ
SNSをぼーっと眺めていたら、若者の読書離れが進んでいるという統計に関する話題がちらほらと流れてきた。それを見たわたしは、正直なところなにも思わなかった。ふーん。別にいいじゃん、と思った。それからしばらくはその話題が一定の耳目を集めているようだった。なかには本を読まないと知性が身につかないなんていうとんでもない意見もあったけど、それは単にそのひとが本を読むことで得るものが多かっただけなんじゃなかろうか。でも大半は、わたしと同じような無関心なひとか本屋や出版社の売上を気にするような良識あるひとばかりで、本を読まないで生活しているひとにいちいち差し出がましい意見を言っているひとは、案外多くは見当たらなかった。
さて、それでは話はここで終わるのか。だって個々で好きにやっていればいいということなら、これ以上書くべきこともないだろう。それでもわたしがまだ書き足りないと思っているのは、やはり、本は読むと得があるよという話なのだ。差し出がましくも、押し付けがましくも、そう言いたい。
もちろん本を読まないとだめだとか、読んでないなんて人生における損失だなんて言うつもりは毛頭ない。一度も本を読まなくても良い人生が送れるのは、一度もフリスビーをしなくても良い人生が送れるのと同じように、当たり前だ。言うまでもない。だからわたしはただ本を読むための秘訣のようなものを教えようと思う。読みたいと思っているけどなかなか読めないひとに語りかけているのだ。でも、この秘訣、秘密と言い換えてもいい、を知ったら読みたいと思っていなかったひとも本を読んでみたくなるかもしれない。ただ注意して欲しいのは、薄々勘づいていた読者もいるかもしれないが、ここから書くことは限りなくわたしの独りよがりの暴論に近いものになるかもしれないということだ。秘訣を書くには多少決めつけたり、論理を飛躍させてしまったほうがいいときもある。もちろん、真面目に読んでもらったら損はさせないつもりだ。
さて、秘訣というのは単純で、「本は書くために読み、読むために書け」というものだ。だいたい本を読む人間には二種類いて、単に好きで読むという人間と、実際になにかの目的を持って読む人間にそれぞれ分類される。好きで読むという人間はこちらが勧めるまでもなく勝手に読んでいるだろうから、読みたくても読めないというジレンマは抱えていないんじゃないかと思う。ただ、これらの人々は人生そのものに役立てるために本を読んでいる場合が多い。ファンタジー小説やSF巨編などという読書好きしか読みたがらないような分厚い本が、大抵は人生の縮図のような構成になっているのはそのためだ。いっぽう目的を持って読むタイプは、例えばビジネス本だったり、スポーツの指南書、外国語の教材なんかを読む人たちだけでなく、実は作家もほとんどこのタイプに分類される。彼らはなにか書くために本を読むのだ。小説家の高橋源一郎はいちど小説家になると良くも悪くももう素人のような読み方はできなくなってしまうとなにかの本で言っていた。一度作家になってしまったら、最終的に自分の著作に反映させることを考えずにはいられないのだろう。最終的にはこちらのタイプを目指せというのがわたしの主張だ。
整理しよう。本を読む人間には二種類いて、一種類目は好きで読んでいるタイプ、二種類目は目的を持って読んでいるタイプだ。しかし、この二人の間には本当ははっきりした境界線がなく、概念としては互いに混ざり合っている。前者のタイプが実は人生に役立てるためという漠然とした目的を持っている場合が多いということは先述した通りだ。また後者のタイプに分類される小説家が小説を好きじゃないはずがない。ではなぜこのような分類を用意したのか。それは結局ひとは目的なしではものごとを楽しめないという事実を周りくどく伝えるためだ。一見ただ好きで読んでいるようなひとも潜在的な目的意識を持っていることが多い。本当にただ本を読んでいる人は本を読むのは良いことだという刷り込みが強固なため、読書自体が目的になっている場合が多い。じっさいそういう知人は他と読書量が桁違いだ。ゆくゆくはこれに近い状態にならなければ読書はなかなか継続しないだろう。なぜなら、わたしたちのほとんどは英語の試験の前ならいくらでも参考書が読めるのに、いざ試験が終わってしまえば参考書になんて二度と小指すら触れないからだ。
つまり、好きで読むタイプは目的を持てているし、目的を持てているタイプはすでに本が好きなのだ。このサイクルに入らなければならない。そして目的として最も手っ取り早く万人に開かれていることこそが「書くこと」なのだ。だから「本は書くために読み、読むために書け」だ。
まずノートになにか書こうとしてみるといい。もちろんつまらないことではなく、面白くて価値があることだ。多分、大抵の人はなにも書けないか、書けてもどこにでもあるような退屈なことしか書けない。もちろんわたしだって大層なことは書けない。もしこの時点で少しでも自分が良いと思えるものが書けた人がいれば、才能がある。他人が見ても良いと言うだろうものが書けた人がいればその人は作家になるべきだ。できあがったものがまずかったからといって落ち込む必要はない。誰しもがそこから始めるのだ。書くことも、読むことも。そこであなたは良いものを書くためにあらゆる手段を駆使しようとすればいい。どんなにズルいことをしたって構わない。となると手段はひとつ。剽窃だ。真似、パクリ、他人の渾身の原稿をこっそり盗むのだ。それに他人と言ってもただの人ではだめだ。世界最高峰の文学者とか、ノーベル賞を受賞した天才とか、そういった人物こそ適任だろう。もちろんあなたが密かに尊敬しているもっと身近に思える人物でも構わない。とにかく、それがベストだと思える人を探すのだ。そして彼ら彼女らの文章を参考にしてもう一度、なにか書いてみる。そのためにはその本をよく読まなければばらない。使われているレトリックや、全体の構成、改行や句読点の打ち方まで、目の前の本には答えが書いてあるはずだ。それを参考にしてもう一度書く。きっと、その時すでにあなたにはより深く、より厳密な態度で本を読んでいるはずだ。そうして本を読み切った時、目の前の文章をさらに良いものにするため読むべき本が、朧げながら見えてきたら、それはあなたはすでに本を読み、文章を書くサイクルのなかに取り込まれているということだ。