日記「自分に集中」
なにも考えずに歩くことは案外難しい。そもそもなにも考えないこと自体が実質的に不可能なのだと言える。そうでなければ誰もわざわざ坐禅など組まないだろう。
だからなるべくひとつのことに集中することが、実はなにも考えない状態に近いのではないかと考える。いや、考えていることをひとつに統合するといった方が正しい。
どういうことか。つまりだ。歩きながら私は今日の夕飯について考えるのに集中していたとする。しかしそのときでも別のことを全く考えないということは実はできない。目の前に電柱があれば避けようとするし、そもそも体は歩行について微弱だろうと意識を割いているはずだ。だから歩きながらひとつのことに集中するということは実質的には不可能ということになってしまう。そこでさっきの「意識の統合」になる。どういうことかというと、「歩行している自分」「電柱を目視し避けようとしている自分」「ペットボトルが鞄の中で溢れていないか気にしている自分」「青い紫陽花が鼻を掠めたのを感じた自分」或いは「イヤホンからレディオヘッドのokコンピューターを聞いている自分」など凡ゆる現象を「自分」というたったひとつの現象の一部に置き換えて解釈すればいいのだ。そうすれば「自分」という巨大な現象ひとつだけに集中することができる。
私はこの間大学からの帰りしなにこれを行なってみた。少々不思議な体験だったのでなるべく起こったことをそのまま書けるように努めてみる。私は何度か固有の思考に当たりそうになりながらも迂回し「自分」という大らかな観察対象にのみ集中した。考えないようにすればするほど意識は冴え、空気の匂いまで濃く感じた。そしてあの木々や建造物と自分の堺はむしろ段々ぼやけていくようだった。種々の現象を自分という現象に「置き換える」という言い方をしたが動物とは本来こういうものなのではないかと思った。野生が呼び起こされたようだった。未就学児が私の眼前にみえたとき他の生物に対する自然な警戒心が起こったほどだ。リラックスしている方が次に起こる事態への対応もしやすいのだろう。自然界を生き抜くためには日常はリラックスして異常を感知できなければならない。
私は元々よく気が散るほうだから新鮮に感じたが、もしかしたら多くの人は元々視界がこういう風なのかもしれない。だとしたら私はやはり自然界を生き残れない弱き者なのだろう。
駄文御免。