雑談「終わりについて」

私は「終わり」というものが苦手だ。だからお気に入りのアニメの最終回は未だに見ていない。本は面白ければ面白いほど終盤のページを雑に読み流してしまう。卒業式や葬式では妙にそわそわしてしまって全く式に集中できない。

そもそも物事が「終わる」ということ自体に私は違和感を感じている。卒業式が来ても人生は続くように、なにかの終わりというものは自らの死以外によっては本質的には訪れない。いや、死後の世界がどうなっているかわからない以上「死」すらも私にとって完全な終わりだと断言できない。私の意識がいまここにある以上終わりというものが存在するかどうかすら本当にはわからないのだ。「終わり」の存在のオリジンが不確定な以上「終わり」ということ自体の存在の根拠も確定していないように思える。
同じように私は「始める」ということにも多少の懐疑は感じているものの、こちらはこの文章を書き始めることができている通り、一旦無理矢理にでも始めてしまえば一応は始めることができる。「一応は」と言ったが実際に始めることができている以上それが完全な形の「始める」だと見做すことさえ不可能ではない。
しかしなぜそれでも「一応」とつけたかと言うと、私はもしかしたら「正しく」始めるということが別に存在するかもしれないと思ったからだ。そして「正しく」始められた場合にのみ「正しい」終わりが用意されているのではないかという理想を抱いているのだ。

或いはもうひとつの直感がある。それはこの世界には「正しい」「始まり」や「正しい」「終わり」など存在しないのではないかという直感だ。全てのものは暫定的にしか存在しておらず、よって「正しい始まり」のような確定したものはそもそも存在しないのではないかということだ。これは妥当な見解にも思えるが、しかしそれでは困ってしまう私もいる。正しい終わりが存在しないのなら、ではなにをもって判断を終えればいいのだろう。いまのこ瞬間にこの文章を公開すれば、一応は「始まり」と同じように「終わり」も訪れる。しかし文章はいくらでも書き足すことができるのだ。一度下したはずの判断をメタ認知に晒し更なる判断を下すことは無限にできてしまう。私は懐疑の渦に飲み込まれてもはや身動きがとれなくなってしまう。

今回の文章がうまくかけたとは全く思っていないが、どうやら私の哲学もどきがまっすぐに虚無主義に伸びていっているということだけはわかった。私の言っていることは低レベルかもしれないが私の味わっているこの苦しみは本当だ。どうにかここから抜け出したいものだ。

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