阪神淡路大震災から30年。当時2歳の私は被災した。
6434人が亡くなった阪神大震災は17日、発生から30年となった。被災した各地で追悼行事が営まれ、市民らが犠牲者の冥福を祈った。日本列島は南海トラフ巨大地震や首都直下地震が懸念される。都市災害として戦後最悪の被害をもたらした震災を教訓に、防災・減災への取り組みが続く。日経記事を要約すると共に、当時の被災の記憶を振り返りたい。
神戸市中央区の公園「東遊園地」では追悼行事が開かれ、地震発生時刻の午前5時46分に市民らが黙とうした。
暗闇を照らす灯籠の数々は「よりそう 1.17」の文字を浮かび上がらせた。
阪神大震災は観測史上初めて震度7を記録し、約25万棟の住宅が全半壊した。
兵庫県が推計した被害総額は約9兆9000億円に上る。復興事業費は官民合わせて総額16兆3000億円に達した。
約20ヘクタールの新長田駅南地区の再開発事業が24年10月末に完了。
阪神大震災の復興まちづくりは計画決定から29年あまりで終わった。
市民団体の調べでは、17日を中心に兵庫県内で57件の追悼・関連行事が実施される。
震災20年の2015年(110件)からほぼ半減した。主催団体の高齢化、財源不足が影響しているとみられる。
【所感】
忘れては決していけない日。今日で阪神淡路大震災から30年を迎えた。私は当時2歳で、実家のある神戸市垂水区で被災した。幸いにも自宅は部屋内の食器が割れたのと、外壁が外れたくらいで、震災後も実家に住み続けることが出来た。
当時の記憶はほんの微かにある。思い浮かぶのは父と母に抱えられて、車に乗ってどこかへ移動した記憶がある。他に、母が実家の階段から転げ落ちて、骨折したこと。そのことを覚えている。
今朝の報道やYouTubeを見ると三ノ宮や新長田を中心に、私の知っている光景ではない、全く別の光景が広がっていた。震災後、私たち家族はどの様にして、立ち直ったのか、どの様にして日常を取り戻したのか、今度両親に聞いてみたい。
10年前の2015年の震災20年のときは、私は大学3回生で、部活の練習が終わった後に東遊園地へと向かい、追悼行事に参加したのを鮮明に覚えている。あれから10年が経ち、日経の記事にある様に、追悼関連行事がほぼ半減したというのは非常に残念なことだと思う。主催団体の高齢化や財源不足が原因というが、あの日を神戸人として、決して風化させてはいけないと思う。
こうして、社会人になって4月で10年目を迎えて、私たちの街神戸を離れて10年近く経つが、1.17は毎年特別な日である。今年は妻も一緒に0546にNHKの中継を観ながら黙祷を捧げた。幸いにも身内に震災で亡くなった人はいない。今日だけで多くの阪神淡路大震災の記事を読んだが、私はこうして生きているのだから恵まれていると強く感じた。
亡くなった方々の分も毎日を大切に生きていきたい。