小説 フィリピン“日本兵探し” (4)
ジプニーの激しい揺れの中、元小隊長は、今回の日本兵について、もし本当に存在していた場合、自分が命を掛けて帰国の説得をしたいと、マサやタカシの訴え続けていた。
1974年の小野田寛郎氏のケースでは、本人の証言によると、戦中と戦後の約30年間で、兵士や地元の警察官や住民、30人以上を殺害してしまう事態となった。23歳の冒険家・鈴木紀夫氏が単独でルバング島を訪れ、小野田と接触するわけだが、 日の丸を掲げてテントを張っていた鈴木は小野田に襲われ、銃を突きつけられた。
夜通し、鈴木は小野田を説得し、上官の命令解除があれば任務を離れることを小野田は了承した。 その後、鈴木とともに小野田の元上官がルバング島を訪れ、元上官による任務解除命令を受けて、彼は投降した。
「わしらが探している日本兵は実弾が入った銃を持っていると考えた方がいい。だが日本人なら、戦友が説明すれば、全く耳を貸さないということはなかろう」、元小隊長は80歳前という年齢を感じさせない、強い覇気がみなぎった男だ。
現在、彼は僧侶で、戦友の御霊にお経を上げる日々を送っている。復員後、彼は教員を務めた。高校の校長でその役目を終え、残りの人生を仏門に捧げた。剣道八段。元小隊長はタカシに「日本兵が撃ってきたら、棒っきれで倒す」と語る。また、拳銃を持つサミエルたちを見て、「あいつらも、銃をこちらに向けるような動きをしたら同じ。頭を叩き割ってやるよ」と付け加えた。
タカシは、サマール島でもレイテ島でも、元小隊長に話を聞き続けた。テレビ取材で、日本兵探しが空振ったときの代わりのネタとして、「元日本兵僧侶のフィリピン巡礼の旅」という話は、ニュースの戦後企画に都合が良かったからだ。
50年以上前、元小隊長はレイテ島でどんな戦闘を米軍に仕掛けていたのか。彼は戦車を爆弾で吹き飛ばした話を自慢げに語った。装備が脆弱な日本軍は路肩の陰に隠れ戦車を待ち、通り過ぎるタイミングで、彼らは下に爆弾を仕掛けた。これがうまくいって、戦車は爆発し燃え上がったという。中に乗っていた米兵もろとも。
「米兵の死を、その時はどう受け止めたのですか?」とタカシが現代人の感覚で尋ねると、元小隊長は半ば驚き、半ば怒りの表情で、「相手は殺しに来とうとぞ。こっちも殺すくさ」。戦後は教鞭を取り、教壇で戦争の愚かさや平和の尊さを説き続けた男の言葉だった。
元小隊長は、目を潤ませ遠くを見るようにして、こんなことを語った。
「不思議と亡くなる奴は、その日、朝から影が薄くなる。朝からいなかったような気がするんだ」
本当に、死を前にした兵士の存在が薄くなるのかどうかは分からない。悲惨だった満州からの引き揚げ者の話で、親が殺される本当に辛い記憶は、いつの間にか消えると語った人もいる。元小隊長にとって、いずれ全滅する部隊の部下の死は、辛い記憶。そんなくびきを負い続け、老僧侶は、悪路を駆けるジプニーに揺られていた。そして、言葉を口にするときは、平静さを意識してか、不思議な笑みを浮かべていた。