No. 15 英語教育とidentityについて 14【基礎編②】
はじめに
前回の投稿では、「ことばとidentityは関係がある」ということから、「第二言語(ここでは英語)とidentityも関係がある」と考え、身近な事例から「英語を学ぶことであたらしいidentitiesを構築、表現できる」ということをみてきました。
今回の投稿は英語学習とidentityについて「基礎編②」と題して、実際に私が高校の教室で経験したことをシェアしていきます。
幸せ (happiness) について考えるアクティビティでのこと
ある授業で、生徒に"When do you feel happy? Why?" といったよくある質問について考えてもらい、作文をした後それを発表してもらう活動をしました。
具体例として、"I feel happy when I listen to my favorite songs. It's because they make me relaxed." といった文を読み上げ、生徒には「なんだ、簡単な文でいいのか」と軽い気持ちで臨んでもらうようにしました(英語に苦手意識のある高校生なので、これは重要なステップなのです)。
実際多くの生徒は「家族一緒にいるとき」「部活に参加しているとき」といった、高校生がよく考えそうな文章を簡潔な文で書き、一生懸命発表してくれました。しかし、ある生徒は、それをきっかけにとても嫌な気分になってしまったのです。なぜか?
それは、「私は幸せを感じる時なんてない」という考えに至ってしまったからです。作文の時点でこのような意見を口にしていたので、「好きな教科を勉強しているときは?」などと簡単に助言をしていました。その生徒はその教科についていつも嬉々として語っているからです。しかし、「それは幸せとは違う」とその生徒はいい、結局発表では「私は幸せを感じる時がない」と言った後、うまく理由を説明できず終わってしまいました。その後、その生徒はとても気分を悪くしてしまい、保健室で休むことになりました。
この出来事から学ぶべきこと
より適切なサポートが必要だった
まず第一に、教員としてはこのような事態は避けるべきことです。いかなる理由であっても、特定の生徒が傷ついてしまうのは良くない授業です。その生徒に申し訳ない気持ちでいっぱいです。
できたことがあるとすれば、作文の段階でもっとヘルプをしてあげるべきでした。そして、発表の際にももっと寄り添い、日本語でもいいから言いたいことを言わせて、それを英語にしてあげて発表として仕上げてあげることもできたと思います。
発表の後には、「幸せの感じ方はそれぞれ違うから、他人が小さいと思うことを幸せと思ってもいいし、幸せを感じることが少ない人がいたっていい」と、全員を肯定する形でフォローをしましたが、他の生徒の前で恥ずかしい思いをした後では効果が薄かったようです。もっと事前にできるフォローがあったはずなので、次に活かしていきたいです。
ただ、英語学習とidentityという観点でこの出来事を捉え直すと、以下のような興味深い見方ができます。
happyという言葉の捉え方
私が簡単にhappyを「幸せ」と訳してしまったので混乱を招いたのかもしれません。実際happyは、おそらく「幸せ」よりも「軽い」意味であるように思います。happyは「嬉しい」と訳すことも多いですし、またCambridge English Dictionaryでもfeeling, showing, or causing pleasure or satisfactionと示されているように、「喜びや満足感のあること」として伝えるべきでした。そうすれば、上述した生徒も取り組みやすかったかもしれません。
しかし、こういったhappyと「幸せ」の差も、英語を学んだからこそ考えることになったのだと言えると思います。日本語ではなんとなく理解できている「概念」も、英語で考えてみると少し違った感じ方をすることがあるのだと、今回の出来事を通じて学びました。もちろん多くの生徒はそこまでこういったことを気にせず、軽い気持ちで作文・発表をしてくれましたが、そうではない小さい物事でも真剣に考えるタイプの生徒にとっては、こういったことも重要な違いとして認識されるようです。このような生徒には、そういった「言語間の意味の差」を考えさせるアプローチをすることで、英語学習にもっとハマっていくのではないかと思いました。
第二言語で表現しようとしたから生まれた「深み」
今回のアクティビティをもし日本語(母語)でした場合、大して考えずとも何かしら書いたり言えたりするので、そこまで深く考えることはなかったのではないかと思います。今回のように英語で考え、表現しようとしたからこそ、言いたいニュアンスがうまく伝えられない苦しみから、嫌な気分になってしまったのだと考えられます。
もちろん嫌な気分にさせることはあってはなりませんが、この思考のプロセスの「深さ」は特筆すべきことのように思います。第二言語という慣れない言葉で表現しようとしたからこそ、「どういったら自分の言いたいことは伝わるのか?」と深く考え、さらにいえば、「そもそも私はどう考えているのか?私は何を大切にしている人間なんだ?」といった、まさにidentityに触れる深い問いにつながっていったのでしょう。周りの人間による適切なフォローは必須ですが、このような深い学びが得られるのも第二言語(多くの人の場合は英語)学習のなせるわざなのではないでしょうか。
おわりに
英語学習者のみなさま
まるで利き手と逆の手でお箸を使おうとしたときに、「普段どうやってお箸を使っているんだっけ?」「こんなに簡単なこともできないのか。。。」となってしまうように、不慣れな英語を学ぶ学習では様々なidentity issues 「アイデンティティの問題」に遭遇します。これは辛いことではありますが、ある意味では「意外な発見」が得られるポジティブな経験でもあります。いいかえると、「あたらしい自分に出会える」貴重な経験でもあるのです。
場合によっては、「英語を使うときは細かいことを気にしていても仕方ないから気にせず大体表現できればいいとしよう」と割り切る心が身についたり、「いや、いくら英語に不慣れだからといって、これだけは譲れない私の大事な考えだ!」と、自分の本当に大切にしている価値観に気付けるかもしれません。私が英語を学んできて1番の財産は、このような自分のidentitiesへの気づきでした。みなさんも英語学習を通じて「あたらしい自分」に気づき、好きなidentitiesを構築・表現していけるといいなと願っております。
英語教育者のみなさま
まず、私のように生徒が気分を害するような授業にならぬよう、様々な配慮をしていただければと思います。。。ただ、おそらく多くの教育者の方々が理解してくださると思うのですが、今回のケースは極めて稀な例だとも言えると思います(実際10数名いる教室内でも一人だけがこのような反応を示しましたし、今まで5年の教員歴の中でも初でした)。そういった意味では、私の今回の投稿が、「こんなに些細な問いでもこういうことが起こりうるのか」と何かの気づきになれば幸いです。
そして、今回の投稿を通じてお分かりいただけたかと思いますが、このような学びの「深さ」は、第二言語を学ぶ際の「リスク」であり、また同時に「可能性」でもあると思います。生徒の深い思考を促し、それをうまくフォローしより良い方向に導ければ、英語を学ぶことでテストの点数が上がったり話せるようになる以上に「価値のある学び」を与えることができるはずです。我々英語教育者ももっと第二言語学習の「深さ」を自覚し、学んでいかないといけませんね。