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あの日を忘れない(長崎原爆投下の日)2/2

あの日から行方不明の母の弟。
新築していた諏訪神社近くの家とは別に本来の家は坂本町にあった。
そこは爆心地から600mほど。
ほぼ周辺にいた人は灰となっていただろう。
投下の前日、母の父(祖父)に叱られ殴られたせいで肩を痛めていた。
(当日は)母いわくおそらくもとの家の方に行っていたのだと思う。」と言っていた。

母の弟を可愛がっていた祖母もその日から一言も弟の話をしたことはなかった、という。
街の惨状を見れば、弟がどうなったかは想像がつく。

空襲警報がならなかったのはおそらく1機だけだったからだろう。

6日に広島に投下された原爆のことは、ひどい爆弾が落ちたらしい、と今と違い被害の状況は知らされていなかったようだ。
その頃は戦争の状況は不利だったので、報道制限があったのだろう。

長崎原爆投下数日前にビラが上空から落ちてきたそうだ。
そこには「死の。。危険」と言った原爆投下を暗示するようなものだったようだ。
母も人伝えで投下後知ったのだった。

当時の候補地は博多や佐世保など。

原爆投下後は、植物は数十年生えない、と言われたそうだが枯れたようになっていた稲も秋には米が取れたそうだ。

もちろん、過去に原爆投下されたことはなく、その影響は知られていない。
わたしも、以前インターネットで検索したが「データなし」だった。

わたしのカラダのDNAにも母から受け継いだ損傷したDNAが存在しているだろう。

と言っても、いとこたちは結婚、出産を経て孫たちもいる。
彼らの中に被爆の影響?というものは1人もいない。

確かに日本は紛れもなく被害者である。
母は亡くなる頃まで繰り返し
「トルーマンが(原爆)を落とした」と言っていました。
トルーマンとは当時のアメリカ大統領である。

日本も原子爆弾の研究をしていたと聞きます。
それは日本に限らず、あらゆる国が研究したのです。
当時原料のウランの採掘を福島でしていた、という話も聞きます。

科学者やそれを手にした者は原爆に限らずいかなるものも試してみたいという誘惑にかられると思います。
それが悪い結果をもたらすものである、としても。

水爆や中性子爆弾など、2つの原爆投下後世界で開発、研究されました。


第二次大戦後、アメリカでは原爆実験の見学ツアーをしていたと言います。
それらの影響を知らないアメリカ人はそれに参加した人もいた、といいます。
(今その人たちはどうしているのだろう)

ウエスタン映画はアメリカではネバダ周辺で撮影されたと言います。
それに参加していたスタッフや俳優たちに影響が少なからずあったとする情報もあります。
ネバダは核実験場がありました。

東日本大地震で福島の原子力発電所で
放射能漏れがあったとき、各地で放射能の測定がされた。
それは大戦後、太平洋上でアメリカが核実験をしていたので、それらの汚染を測定していたので、測定器が存在していた。
わたしが子供の頃(現在わたしは65歳)、雨が降ると
「雨に濡れたらハゲになっちゃうんだよ」と言っていました。
それは案に核実験による放射能汚染を意味していたのだと、今更ながら再認識してしまいます。


今も核使用をちらつかせる者がいます。
それを所有していても使わなければ、安全というわけではありません。
それが存在する限り、将来それを使う者がいるかもしれません。
自然災害の時、何らかの作用で起動するかもしれない、汚染されるかもしれません。
投下されたところだけでなく、大気を通して世界中に広がります。

他人事でなく、声を上げ続けることが抑止となります。

あらゆる戦争で命を絶たれた人々の冥福を祈ります。
そして愛する人を失った人々がに安らぎがいつの日か訪れることを強く祈ります。



***
母のアルバムには、おそらく写真館で撮ったであろう女学生たちの笑顔の写真が数枚あります。
饒舌な母から彼女たちのその後を聞いたことはありません。
あの日の笑顔、母の記憶は止まったままです。

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