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『さわおさん』と『賢治先生』2
1からのつづきです。
……
ピロウズに出会った頃、「こんなにメロディが良くて、歌詞も素敵で、演奏もすっごい良いんだし、メンバーもカッコいいだから絶対すぐに爆売れするんだろうなあワクワク!」って本当に思ってた。
同時期に聴いてたスピッツが「ロビンソン」でぽーんと大ヒットしたみたいに、ランキングのトップをあっという間にピロウズが駆け上がるんだと思っていたんだ。
その後だいぶしてから、フリクリに起用された時も、
エイベ移籍があって露出が増えて、
ライブの動員が明らかに増えた時も、
「やったー!ついに来たぜ、爆売れしよーぜ!」って興奮してたなあ。
あんまりにも自分にとって直球ストレートに素晴らしすぎて、ピロウズが変わってる?
とかひねくれてる?とか
あんまり理解してなかった(笑)。
すっごい気が効いてて独特のセンスが素晴らしいって事だけ、解ってた。
さわおさんが時々、自虐MCで云うのを聞いてようやく
え、わたしたちのセンスはマイノリティなんですか?!って思ったのよ…。
途中から嫌われ者、とか不器用な、ハミダシモノ、みたいなキャラクターを客観的に理解したけど、理解が遅かったんだよな〜。
じぶん自身がだんだんオトナになって、苦労して、多勢とはどうやら違うんだって、
ようやく理解してきたかも(恥)。
自分自身はまあ常に、すでに、
幼稚園生の頃から浮いていて
ハミダシモノだったんですけど、
まさかピロウズがそういう奴にばかり刺さる何かを持ってるバンド、だなんてしばらく勘づいてなかったなあ。
……遅っ(笑)!!
わたし自身は、育ちの悪さのせいででこうなっちゃったのかな?とも思っていたけど、なんだか
ほぼ先天的なアレで惹かれるアンテナみたいなものがあるのかも知れないね。
ライブ会場で、バスターズは、雰囲気が悪くならないように、ものすごく気を使うじゃないですか?
デリケートな雰囲気と機微をすぐ察知してる。
アレが、出来るのに、
わたし達、なんで外ではストレンジャーなんだろうね??
読める空気、が世間一般とは別のところに存在するのかな。
誰かのせいじゃないし、誰かのおかげでもない。
ただ、僕らは出会えたんだね。
だけどさ、気がつけば世界中に大ファンがいっぱいいるし、影響も与えまくってて、長年にわたってこんなに深く愛されてるバンドが、人気ないバンドとはとても言えないよね。
すごく、幸せじゃん。
その一部の、ひとかけらにだけでも、なれたなら、わたしは光栄なんだ。
わたし、一回だけ、じぶんの旅と絵の活動を取材されてさ、FM出たんだよねえ。
何でも一曲かけていいって言うから「MY FOOT」にしてもらった。【旅】っぽいから。
わたしの話しより、ピロウズに気づいてくれる人いたらいいなあって興奮してた(笑)微力ながら。
(でも、ホントはそういう意識でいちゃいけないんだよね〜自分の事、もっとちゃんと、やんなきゃさダメだよね)
高校卒業後の進路はとりあえず大学にしたけど最後まで、文系と美術系で迷って、最終的に美大に行った。
美大に受かるには前もって予備校でデッサンをやらなきゃいけない。自習ではなかなかむつかしいのが現実。
予備校に通い始める時期が遅かったので、必死に短期集中訓練講座に通いながら、常にピロウズを聴いて自分を励ましてた。
「ONE LIFE」を聴きながら受験会場へ向かって、第一志望に無事に合格し、
美大生時代はバキバキの第3期のピロウズのライブに通いまくり、遠征もしまくっていた。
ついでに国内旅行の楽しみを満喫していた。
あの頃わたしは異様に記憶力が良くて、
(ただし、自分が興味あることだけ)
その日のセトリは一発で記憶できたし、MCも含めてピロウズのライブレポートを、ヒマと情熱に任せてめっちゃ細く書いてwebに投稿してた。
当時のツアーはセトリがAとB 2パターンあるのが常だったし、
途中でちょっとずつ変更されてたりしたから、楽しみだったし気をぬけなかった。
ニュー・アルバムのツアーなのにもう、
「次の新曲ができたから聴いてくれ!」って云われて、
新曲を演ってくれたりもした。
出会った頃は、なんとなくシャイな印象だったさわおさんのMCは、だんだん無茶苦茶流暢になってって、めっちゃ面白かった。いっぱい笑わせてくれた。
毒気も痛快で、ますます好きになった。
音楽への自信がそうさせたのかな?前よりめっちゃ、堂々としてるなーって感じ。
鈴木淳とトークだけのコントのイベントまで開催した時は『ミュージシャンなのに、やりすぎじゃねえの?』と思ったけど、悔しいけど面白かった。
「さわおさーん!」「可愛い!」って声援がとんで、
『知ってる!!!』
って応えるさわおさんは超・ご機嫌だった。
最高にチャーミングで、無敵で、最強だった。
それを観て、横でにこにこしてるぴーちゃんに、癒された。
シンちゃんの安定のマイペースさも大好きだった。
演奏はもちろんの事、
3人の、キャラクターのバランスや受け答えの相関関係が、大好きだった。
わたしはある程度歪んだ家庭で育ったので、両親のことがずっと信じられなかったけれど、
ステレオの向こうにでも、信じれる大人が3人見つかったことは、とても救いだった。
とってもキラキラして観えた。
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大学卒業後は、就職氷河期世のど真ん中だったけど、なんとか新卒で第一志望の会社に受かり、
わたしは仕事を覚えて、「マトモになろう」と必死だった。
この頃は、仕事に慣れるのに忙しすぎてちょっとだけ、音楽にのめり込むことから離れてたかもしれない。
でも聴いてたし、ライブも行ってた。
そんな会社員時代に「ペナルティライフ」が出て、この頃から、さわおさんは刺青を入れ始めた。
ちょっとびっくりした。
何となく、顔つきや表情も、少し変わったように感じた。
そして、何だか、
「あぁ、音楽を手に入れるために、このヒトは、ふつうの幸せを、捨てることにしたんだな…」ってうっすら畏怖を感じた。
わたしの仕事は最初は2年くらい下積みがキツかったけど、
乗り越えると好きな仕事が出来て、褒めてもらえたし、けっこう誇らしかった。
マトモになれたような気がした。
でも、数年したら仕事がダメになった。
上手くいかない仕事のストレスで鬱になり、アル中一歩手前にまで行き、仕事の休み時間に、こっそりカバンに忍ばせた酒を飲む始末だった。
ちゃんとやらなきゃ、と思っても、思っても、
身体が思い通りに動かなかった。
あんなに上手くやれてると思った上司とも、関係がギスギスした。
必死になればなるほど、上手くいかなくて、
本当に参った。
身体がおかしくて、
腕を上げるのも、一歩歩くのも、
その度に激痛がした。
医者には「ストレスによる心身症」だと言われた。勧められて休職したけど、結局治らなくて、退社した。
とても悲しかった。悔しかった。
この頃は長年悩んでいた家庭環境も、
地獄のドロドロ末期状態で、本当に色々しんどかった。
親から逃げて一人暮らししていたけれど、居場所がバレて嫌な思いをした。
弁護士に金を積んで、解決してもらうことを覚えた。
この頃、いろんな人に迷惑をかけたけど、迷惑をかけても嫌がらずに心配して、
助けてくれる人が居ることをようやく、知った。
退職してしばらく休んで、読めなかった活字が再度目で追えるようになってから、また文学や哲学書を読み始めた。
その間もピロウズは、ずっと聴いていた。
わたしにとっては、ピロウズは、ロゴスだ。
・
前職で、わたしは何度か海外出張に行った。
会社の皆は時差とか、言葉の壁とか、めんどくさがってたけど、わたしはすごく好奇心を刺激されるから、海外出張が好きだった。
退職して、身体が治ったら、『旅をしよう』と決めた。
そのままバックパッカーになった。
ハマりだしたら止まらない性格だから、
行っては帰り、行っては帰り、
だんだん旅の期間は長引いて、
60カ国くらい行った。
(これからも、もっと行くだろう。)
貯金で航空券を買い、
バックパック一つで旅に出た。
一回出ると、数カ月帰らない。
一泊300円の宿に泊まり、オンボロの夜行列車で20時間移動した。
無茶苦茶オモシロイんだ!これが。
♪地面は続いてるんだ
好きな場所へ行こう キミならそれが出来る、
って言われて真に受けて、陸路で幾つも国境を越えた。
どこへだって行ける気がした。
ファニバニはそういう意味じゃねぇだろ、って事は理解してる(笑)。
いつもひとり旅だった。
めちゃくちゃスリリングで、自由で、孤独で、最高だった。
途中で野垂れ死んでも構わない!
それって、なんて自由で素敵なんだろう??
最初は頑なに孤独を満喫していたけど、
だんだん旅人の仲間ができたり、いろんな国に友達が出来た。
凍えるヘルシンキにだって行ったよ。さわおさんは行ってないのにね(笑)。
ロンドンではピカデリーサーカスに行って、THE TUBE(地下鉄)に乗って、わくわくした。LITTLE BUSTERSブックレットの撮影地だよ〜。
でもなんで、ロンドンまで行ったのに、【バタシー発電所】へ行かなかったんだろう??ハイブリッドレインボウのMVロケ地なのに…。
いつか、絶対に行かなくちゃ。
旅人としての必要にかられて、スペイン語もロシア語も齧ったけど、
『うっふふふ、ピロウズつながりだ…!』って思いながら勉強してた。♪ドーブリ ヴェーチェル
こういうところ、本当にキモいオタクだなー。
(元々引きこもりの陰キャなんだよ、仕方ないだろ。)
特にロシア語は響きがうつくしい言語で、さすがさわおさんはセンスあるなあって思った。
ロシアはすごく気に入って、10日間のつもりがサンクトペテルブルクの街に、1ヶ月間居続けた。
この時隣国のベラルーシから出稼ぎに来てる男と知り合って、
何故かタマシイが惹かれ合い、期間限定だって分かってたけど「ジョニーストロボ」みたいな恋愛をしたりもした。
相手は見るからにガラの悪いヤツだったので、
自分がまさか、こんなBad boyを好きになるなんて信じられなかったけど、
なんだか両思いだった。
勘違いじゃ、なかったと思う。
人生ってドラマティックで面白いなと思った。
そして、改めて
「わたしは一生結婚とか、ムリだな〜」、って思った。
旅して、帰国して、貯金して、また旅に出る繰り返し。
マトモになろうとしてた事は、すっかり忘れた。
『意味なんかなくたっていい!』
あるのは願望だけだ、ってさわおさんも(チャップリンも)言ってた。
だから旅を続けた。
でも、ピロウズのライブを観るために、絶対に予定を合わせて帰国した。
オレンジ色の封筒(FC)の確認は、欠かさなかった。
帰国直後に、久々に爆音で浴びる日本語のロックンロールは、毎度格別だった。
出汁の効いた蕎麦より、何百倍も旨いし、沁みた。
行くまで怖かったライブハウスは、もはや心の実家みたいな場所になってった。
話したことは殆どないけど、BUSTERSの独特の空気感は、いつも優しかった。
きっと皆、世間では大変なんだろうな。ふふふ。
デリケートな空気感を分かち合い、
幸せを噛み締めていた。
じぶんも『またがんばろう』って勇気を、貰った。
ずっと、続くんだと、思ってた。
「カムパネルラ、僕たち、どこまでもどこまでも一緒に行こうねえ」
「ああ、きっと行くよ」
僕たち本当のさいわいを探しに行こう。
そう言った、宮沢賢治の
「銀河鉄道の夜」の、ジョバンニとカムパネルラのセリフみたいに。
ピロウズの3人には「どこまでも行こう」そう感じさせる何かが、確かにあったと思う。
この世の果てまで、本当に、
僕たちなら、
行けるんじゃないかって、何度も、思えた。
信じた。嘘はなかった。
僕たちは、
曲とライブだけでつながってると思ってた。
音楽雑誌で語られるバンドストーリーも熟読してたけど、
結局は、曲とライブで勝負だよね?
アルバム「TRIAL」の前と後、でわたしの中ではピロウズの歴史が何となくわかれている。
最初の休止を聞かされた時も、
「まあ、そろそろ、そうかもね。お疲れ様、待ってるよ。」って思ってた。
その休止後の、916に発売された「ハッピー・バースデー」は素直に、とっても美しい曲だと思った。
なんてかなしくて、美しい曲だろう。
ギターの音色に、胸が締め付けられるようだった。
無敵だった、ピロウズ。
新譜が出れば飛びついたし、必ず好きな曲があったし、ライブは毎度カッコよかったけど、
ファンならおのずと察せられる、バンド継続の苦悩を綴った曲があるのは、ちょっとしんどかった。
「MOONDUST」とか、
『さわおさん、これから作る曲はみんなこんな感じになっちゃうのかな…』って、ぼんやり憂鬱に思った。
現実と作品の内容を絡めて語るのは、とても野暮なんだけど、気になるものは気になる。
破れかけた飛行船とか、言わないでくれー
バンドで、こういう歌を歌えるさわおさんはすごく冷めていて、真面目で、残酷だ。
でも、そういうところも含めて、すでに深い愛着があった。相変わらず、信用できるし、心から、好きだよ。
行けるとこまで行ってくれよ。
見届けるよ。そうぼんやり思っていた気がする。
「連れて行ってくれ!」って初めてわたし達に叫んでくれた、武道館の夜が、わたしにとっては相互関係としては最骨頂だった気がする。
こちら側に、ふわりと倒れかかってきたさわおさんを、優しく受け止めることが、出来たと思った。
確かに、孤独じゃなかった。
一晩だけでも、理解者に、なれた。
横浜アリーナへの道は、とってもとっても美しかった。
だけど、すでに、
どことなく不安な胸騒ぎがしていた。
何かをカウントダウンする音が、遠くに聴こえる気がした。
それでも、どこまでも、
確かめに行こうって言ってよ、この世の果てまで、連れて行ってくれるんでしょ、って、思い込もうとした。
限界なんてこんなもんじゃない…こんなんじゃない…。
3へ、つづく
……