老将のつないだ希望
三浦半島の歴史再興と観光マッチングは、近年目を見張る。歴×トキ×山城ガールむつみ氏の尽力が計り知れず、正直、爪の垢でも煎じて飲みたくなるくらい、圧倒されてしまう。その原点が、常にブレないのも素晴らしい。
衣笠城。
源頼朝の挙兵は、ギャンブルだ。局地的に勝利して、じわじわ信奉者を拡大することで、当時の絶対的権力者・平清盛と対峙できるか。一種のギャンブルだ。
源頼朝が伊豆に配流されなければ東国武士は賭けに出なかった。以仁王が令旨を発しなければ、頼朝は歴史の底に朽ちた筈だった。目に見えない歴史の作用が、源氏の流人を中心とした旋風をおこし、男たちをギャンブルに掻き立てた。そのギャンブルは、石橋山で然るべき惨敗となった。これまでの過程に、三浦氏は直接の介在をしていない。
石橋山に参加するため行軍していた三浦氏は、酒匂川増水で渡河できず、本領に引き上げる途中で由比ガ浜にて不慮の戦闘に及び、衣笠城に籠城した。情報は途絶し、孤立無援である。
三浦一族も追い詰められた。
ここまでは『吾妻鏡』から知り得る事態の流れである。常識的な侍の思考は、城を枕に〈一所懸命〉に死して名を残そうとするだろう。
しかし三浦氏は異なった。
総帥である三浦介義明は当時八九歳。間違いなく保守的に走る年齢だが、決断は驚くべきものだった。
「佐(頼朝)殿はきっと生きているから、これと合流し盛り立てるべし」
つまり平清盛という揺るぎない権力になびく保守性を持たず、あくまでも革命の可能性を信じて、迷わずに実行したのが三浦義明だった。このことは、日本人の保守性に一石投じる決断力だろう。
盛り立てるべき再起の場所も、ひょっとしたら事前に取り決めていたのかも知れない。それが、三浦領飛び地だった房総半島だ。頼朝を探し出して盛り立てろという三浦義明は、夜陰に紛れて一族揃って江戸湾へ脱する指示を出す。意味もなく逃げるのではなく、房総で頼朝を待てというものだ。
未来への可能性を信じて行動する。まるで若者のような瑞々しい決断。三浦一族は衣笠城の包囲を抜けてからくも脱し、久里浜から海に出た。このとき頼朝の生死は一切わからないが、疑いなく可能性を信じた。結論として、数日後、石橋山で敗れた者たちが続々と集結し源頼朝と合流。それから1ヶ月、頼朝は房総半島から奇跡への第一歩を踏み出すのである。
三浦義明は子々孫々へ、可能性と希望を見事につないだ。そして、自分自身は、死して名を残す道を選んだ。理由としては老齢すぎて足手まといになることや、もしも途中で捨て置くことになれば
「三浦は年寄りを見捨てていった」
と嘲笑される。だからこそ、可能性をつないだうえで、一己の侍としての栄誉を選んだ。
「死して名を残す」
まさにその通りの結果となった。
最後まで衣笠城に踏み止まり一歩も引かず立ちはだかった。これは討たれても武勇伝となり、敵も味方も感服する。実に合理的な決断をした。その後の三浦氏は頼朝の支えを全うした。義明の跡を継いだ三浦義継も、冷静かつ合理的に、頼朝を支え続けた。
頼朝再起のシナリオは、多分に三浦氏が描いた。
その先に武家社会が到来することまで見通していたかは、知る由もない。しかし、大河ドラマも今は昔、熱量を失うことなく三浦パワーを発している現在のツワモノたちの情熱には感服します。
この話題は「歴史研究」寄稿の一部であるが、採用されていないので、ここで拾い上げた。戎光祥社に変わってからは年に一度の掲載があるかないかになってしまったので、いよいよ未掲載文が溜まる一方。
勿体ないから、小出しでnoteに使おう。
暫くはネタに困らないな。
「歴史研究」は、もう別のものになってしまったから。