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時間芸術と行間芸術

土曜日のTBS番組「情報7daysニュースキャスター」は、作家を称する誰もが注目したことと思う。
結局、渦中の当事者である日本テレビと小学館がだんまりで、そもそもの原点がどこにあるのかさえ見失う問題になっている。
過熱するのは外野ばかり。

原作者と脚本家。
その意識と、70年に及ぶ長いテレビの歴史で公然とされてきた、暗黙の当然ルールもあると思う。大家とされる原作者には機嫌伺いする一方で、使ってやると見下される作家もきっといる。いたハズ。

TBSの番組内で三谷幸喜氏が断言したことは、原作を尊重しつつも媒体の原点が異なること。尺の問題。映像の骨格になるシナリオは時間を計算して組み立てるもの。三谷氏は「時間芸術」と断言する。
この概念に「なるほど」と思った者はどれほどおられるか。原作作品の内容や展開進捗によっては、尺に噛み合わない、少なすぎる長すぎるでシナリオ化に影響を及ぼすこともある。何でもリスペクトしきれるものではない。しかしそのうえで、原作の意図を尊重することが絶対の意味も三谷氏は断言する。
「だから、難しい」……と。
三谷幸喜氏はオリジナルの脚本が執筆できる才能の持ち主だ。ゆえにゼロから生み出す側の人間。舞台出身だから役者にも敬意を評する。アタリハズレは大きくても、原作なぞってテヘペロな脚本家ではない。ゆえにゼロから生み出すことの難しさを知るから、オリジナルにこだわるのだろう。
アカデミー賞には「脚本賞」と「脚色賞」がある。それほど別ジャンルなのだという、意識もある。この意識は、テレビマンにはきっと、無い。

私見である。
「時間芸術」に対して、文芸に関していえば「行間芸術」という言葉を強いて用いたい。私見なので、あくまでも私見ですから、異論は山ほどあると思うけど、聞いて。
漫画はちょっと置いといて、作文に特化すると、書き手が腐心するのはゼロから生むことだけではなく、どんなトリックで、読みやすく構成するか、という作為も含まれる。見た目でギュウギュウに詰め込まれたもので「クソ難しい論文」だとうんざりされないように、意図的に、改行や空間を用いること、やってますよね?句読点のテクニックとか。
映像には、そんなもの一切関係ない。相容れぬ表現だからこそ、相思相愛になるためにはお互いが納得するしかないのです。
漫画のことは別の視点や観点があると思うけど、餅は餅屋なので、ここでは専門の方にご意見は譲る。

ゆえに脚色する原作付のシナリオを手掛けるライターは、常の脚本よりも人一倍神経をとがらせて然るべき。このことが置き去りにされて、軽んじられて、制作ファーストが罷り通って来たのが、これまでのドラマ脚本やテレビ局制作映画の脚本だったのじゃないかな?
薄利多売のドラマ生産のために創作が欠如すれば原作付に頼るのも分かる。
結果、妙なとんでもドラマが生まれる。アニメはもっとひどい。1クール13話、連載中の作品が収まる筈もなく中途半端に時間切れで、DVD売れなかったら続きは放置。
これで原作者が声を挙げなかった。もしくは声が小さく扱われた。その積み重ねて改善放置した結果の不幸な出来事が、今度のことだろう。

小泉今日子さんが「バラエティはくだらない」発言をしたことに噛みつく芸人もいたが、時代や価値観に併せないことが「くだらない」という補足をしている。アップデートされていないのがバラエティだと。
そうだと思う。
楽屋ネタや字幕だらけなのは、視聴者置いてけぼり。なにより視聴者参加型ではない。いまの時代に合ってるのか。合わせているのはコンプライアンスにビクビクしている部分だけ。
ドラマもそうだと思う。アップデートはされていない。しない、したくない信念の部分があってもいいけど、それは画面に映らないテレビマンの根っこ部分だと思う。それを見透かされるのは、その番組がいかに薄くて浅い思慮で制作されているか、につきる。

時間芸術に対して
「だから原作者の方は、映像化するのを許可する時には、そこを理解しておかなきゃいけない」
という三谷幸喜氏の言葉は、書く側も考えるべきこと。
「その上で脚本家は、できる限り原作者の思いをくんで。世界観は原作者が考えたものだから、それを逸脱してはいけないと思う。だから脚色って本当に難しくて、僕はできない、得意ではない方なんだけど」
と、三谷幸喜氏は継いだ。脚本をする側に訴えた、善意の正論なのだ。
それが相容れぬ場合は、無理やり映像にするべきではない。せっかくの作品が不幸になることだけはあってはいけない。

書き手なら皆、知っている。
身を切って生み出す作品の値打ちは、自分だけが一番知っているのだから。

古い新聞記事だけど……引用

原作者自らが舞台の脚本をしなければならない苦悩は、十分知っている。
新聞にある劇団で舞台公演した時に、元々の作品はまだ連載中。でも、結末は必要。他人の手で別物にされるくらいなら、落としどころをつけて、自分に納得したいという想いは、夢酔も知っているんです。
舞台でキャラクターが物語の完結を現わす台詞として「私は、私に出来ることを精一杯やっただけです」という言葉を用いた。これは、原作には出て来ない台詞。結局、全部自分で折り合いをつけたという「代弁」に過ぎないんです。
こんなことをバラすのは初めてのことです。ずっと黙っていました。云わんでもいいことだったから。

今度のことは、当事者になるテレビ局と出版社が黙っている以上、いくら他局の番組で現役脚本家が声を出しても、それっきり。
私も、誰かをつるし上げる正義ちゃんでありたいとは思いたくないし、無駄に拡散して騒動広げたいわけでもなく、ましてや「かまって」ちゃんになることを望んでいない。どちら側の書き手にとっても、最良であれと祈ることしか出来ない。どうせ、まだまだ地を這う者でしかないのだから、傾けられる言葉ではないけど、ペンは剣より強しの名言よろしく「凶器」と「狂気」が生み出す力であるからして。傷つけあえば命を左右する。読者も視聴者も参加できない闇から生まれる物語に不幸の付加価値だけは与えたくない。
私見です。
しつこいけれど私見です。
物を生み出すこと、それを借りること、どうかこののちは……
平和であれ。。(´•̥ ω •̥` )

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