空振りしすぎ人生2024(思考編)
こんばんは。
7月いっぱいで仕事を辞めた人間です。新卒で入社した会社を4か月で退職しました。詳細は省きます。
現状としては、実家に戻り、家業を手伝いながら何とか生きています。
本当に家族ありがとう。
そんな状況ですので、何とか元気にはやっておりますが、私がnoteを書くときは大体病んでますので、はい、病んでます。
最近は、親の仕事にあやかっている罪悪感、前職のトラウマを思い出し自責、他人と比較して闇、という最悪な思考ループに陥っています。
今までの人生、上手くいってるなあと思っていたことの方が少ないですが、今年2024年は特に心の調子が悪いかもしれない。いや、出来事が沢山ありすぎて単純に疲れている感じか。
あと、私といえば恋愛大苦手人間ですので、恋愛も上手くいっていないわけです。
主に思考と恋愛が本当に本当に馬鹿野郎な2024年、今のところ8月までを振り返ってみようと思います。今回は思考編です。
※だいぶ、小賢しい文章になっております。ご容赦ください。
1.思考
思考に関しては、最近感じていることを少し書いてみようと思います。
まずは、私の主な思考の癖について。
私は元来、ネガティブの権化ではありますが、主に防衛的悲観主義をモットーにして生きておりますので、バチくそネガティブなのかと問われると、そうでもなかったりします。物事が起こる前にネガティブな想像をして、予め用意しておき、いざ物事を体験すると想像していたよりも悪くなかったな、と終わらせたい生き物です。
・防衛的悲観主義
「防衛的悲観主義は不安を引き起こすような出来事や仕事に備えるための方略として用いられ、防衛的悲観主義者は、彼らの目標追及に対して不利な影響を及ぼすかもしれない特定の好ましからぬ出来事や失敗について徹底的に思案する。あり得るネガティブな結果を予想しておくことによって、防衛的悲観主義者はそれらを回避するなり、備えるなりするための行動を取ることができる(Wikipediaより引用)。」
なので、大きいプレッシャーのある仕事などがある時は、当日になれば「もうどうにでもなれよ…くそが…」と諦めています。
ああなったらどうしよう→こうするか。でもこうなるかも→こうするか。
と、考えて考えて結局疲れるまで考えた末、力を発揮するというパターンが多いです。
昔から、諦めてからがいちばん本領発揮できる気がします。ここで言う諦めは、おそらく様々な想定をし終わっている状態であると思われます。
防衛的悲観主義や考えすぎる事は、なんだかんだ私を助けてくれる事が多かったのですが、最近は頭が正常に作動しない感じがあります。考えてるイメージにモヤがかかっている感じ。ああしよう、こうしようが出てきません。アイデアが終わっている。
もう本当に単純な一言で言い表してしまうと、原因はおそらく「疲労」です。くそ…。
人生が自分の意志と裏腹に動くとき、多くの場合は「その方向、行動合ってませんやで~」という事だと思ってるのですが、まさに今それなのかな。
防衛的悲観主義とか私の思考パターンではここからの人生太刀打ちできないのかもしれません。在り方とかを大幅に変更しないといけないのかもしれません。仕事を辞める決断をしてから全て壊れた感じもありますが…。
これからどうしたいかなどの進路変更の途中なのだろうと思います。
(今も見えない未来に対して、どうしようどうしようと考えはしているので、そのうち諦めが来てくれるかもしれませんね。)
しかも、おおよその方向性もそんなに早く決まってくれる感じもありません。これが結構辛い。先がどうなるかわからない状態はこんなにも辛いのですか。
とりあえず、自分の人生の手綱を握れていないと感じているので、流されまくっていますし、軸がブレブレですし、情緒が不安定です。
情緒が不安定ということで、友達や家族に毎日連絡したい、寂しい、誰かに大丈夫だよと言ってほしい、認められたいという感情が大爆発しています。最悪だ…。最悪だ。
(なるべく暴走しないようには努めている、このように文章を書いたりして。大切な人をサンドバックにはしたくないよう…。)
関係ないですが、人生が上手くいっていない時、大体マッチングアプリをしている傾向があります。ええ、しています。遊ぶとか器用な事も出来ず、メッセージとかで勝手に消耗してすり減らされるという。もう本当に最悪だ。
しかし、悪いことしかないのは何だか腹が立つので、今現在の流されやすい情緒不安定な自分を利用して、他人からの誘いはとりあえず乗ってみるようにしています。2024の目標は誘いには乗ること。
直近では、家業の取引先のおじ様の誘いに乗って、インドアな自分が船に乗って釣りに行くことが決まってしまいました。
いっちょ船に乗って酔って吐いてみようー。
このまま流され続けると、そのうちバイクにも乗りそうです。まじか。
今はとりあえずやったことのないこと、自分ひとりではやりそうにないことを挑戦することを心掛けています。
言葉にしてみると、結構良いですね。この取り組みが何かの実を結ぶことを密かに期待しています。
現状、ぐるぐる考えていることを書いてみると、なんだか悪くないようにも思えてきました。アウトプットって大切なんやな…。
2.自分らしさを愛せているか
ここからは余談になってしまうのですが、以前の自分のことが結構好きでした。
私が考える以前の私の好きなところはこんな感じです。
※私ごときが傲慢な真似をして申し訳ありません。見過ごしてください。
・語彙力があった
・度胸がそれなりにあった
・社会でよく言われる同調圧力に流されなかった
・他人に興味なかった
・他人を喜ばせたいという気遣いがあった
・人に依存していない
・なんかさっぱりきっぱりしてた
・なんか笑顔が多かったし良かった
こんな感じです。
3つ目の「社会でよく言われる同調圧力に流されなかった」というのは、例えば人の容姿を絶対に悪く言わない・思わない。仕事が遅い人を悪く言わないとかです。
これは退職した会社での出来事が関連しています。
前の職場では上司が仕事のできない同僚のことを悪く言っていることがよくありました。
仕事できない同僚は職場のほぼ全員から嫌われていたので、ほぼいじめのようなもんですね。
上手く言葉にできないのですが、仕事の不満と共に人格・容姿に関してもとやかく言うのですね。
「そこアイツが触ったところやから触らんとき」など。
う~ん、うまく言葉にできないですがこんな感じです。ちくちく言葉嫌ですね。
それに同調を求められるわけです。「ほんまにあかんわ、なあ?しろいさんアイツ無視してええけんな」と。
その他にも、その同僚がミスしたのを「しろいさん、これどこが間違っとる?直してみて」と皆に見せしめするかのように言ってきたり。
今書いてて、よっぽど嫌だったんだな~と自分でも思っています。
入社したての頃は「な、なんだこのレベルの低い悪口は…」とドン引きしていましたが、慣れるわけです。
このような状況でへらへら笑って「え~?(笑)」とか言って流していたら、段々とその価値観が内在化されていました。
仕事が少しでも遅い人を見ると、「そんなんだからダメなんだよなあ」と自分の頭の中で囁く声が聞こえるのです。
町ですれ違う人を見て「あの太い足であんなミニスカ履けるんだ」とか。最悪すぎる。
以前はそんなこと考えたことが無かったため、気付いた時はショックでした。そもそも他人の容姿などの興味が無かったですし、好きな服を着ることで幸せならそうすればいい、幸せな人が多いに越したことは無いと考えていました。
余裕が無かったことにも加えて、表面的な要素をわざわざ取り出して自分の尺度で評価する。そうすることで自分の価値を保つ。という流れが私の脳にこびりついてしまいました。
(今でも少し残っていて、これを消したいと考えています。)
真っ当な大人は慣れて流せるのかもしれません。これに耐えられなかった自分、流せなかった自分はやはり正義感というのが強すぎますし、それは美徳ではないし、生きづらさに繋がるものだと考えています。
しかし、内在化して残っている差別的な観念を本当に消したいのです。それを一切しなかった以前の自分が好きだったが故に。
退職する前もっと言うと就職する前の自分に戻りたいという話を姉(やばい人生経験を積んでいるスーパーサイヤ人)に話すと、
「あ~、完全には戻れないよ。なんかまた違う自分に変わる。」と言われました。いや、そうですよね~。
今の自分はまだ好きになれそうにありません。別に好きにならなくともいいのですが、受け入れることも少し難しいです。
姉の言ったような「なんかまた違う自分に変わる」のでしょうか。自分で自分を少なくとも受け入れられるような変化、他者を大切にできるような変化だといいなと思います。
今回はこのくらいで。
こんなにぐちゃぐちゃな文章をここまで読んでくださった方、いるのでしょうか。いましたら、ありがとうございます。
何か嬉しいことが皆様に起こりますように。ありがとうございました。